June 292003
ふりかけの音それはそれ夕凪ぎぬ
永末恵子
季語は「夕凪(ゆうなぎ)」で夏。海辺では、夏の夕方に風が絶えてひどい暑さになる。瀬戸内海の夕凪はとくに有名で、油凪といういかにも暑苦しげな言葉があるほどだ。私は海の近くに暮らしたことがないので、生活感覚としての夕凪は知らない。若い頃に出かけたあちちこちの海岸での、わずかな体験のみである。ただじいっとしているだけで汗が滲み出てくる、あのべたっとした暑さには、たしかにまいった。たいていは民宿に泊まったから、掲句を読んだ途端に、民宿の夕飯時を思い出してしまった。民宿の夕飯は早い。すなわちまだ明るい時間で、ちょうど夕凪のころだ。当時はどこの民宿に行っても、テーブルに「ふりかけ」の缶がどんと置いてあったような……。出てきたおかずだけでは到底足らない食欲旺盛な若者用だったのか、それとも逆に食欲の湧かない人がなんとか飯を食べるためのものだったのか。冷房装置なんて洒落たものはなかったから、じっとりとした暑さのなかでの食事はたまらなかったなあ。句はそんなたまらなさを、さらさらした「ふりかけの音」との対比で表現している。触覚ではなく聴覚を持ちだしてきたところが面白い。センスがいい。しかし、いかに音がさらさらしていたところで、本当に「それはそれ」でしかないのであり、げんなりしている作者の様子が目に浮かぶようだ。可笑しみが、そこはかとなく漂ってくる。『ゆらのとを』(2003)所収。(清水哲男)
September 022013
こときれてゆく夕凪のごときもの
五十嵐秀彦
句集では、この句の前に「眠りつつ崩るる夏や父の肺」が置かれているので、同じく父上の末期の様子を詠んだものだろう。島崎藤村が瀕死の床にあった田山花袋に「おい、死ぬってどんな心持ちだ」と呼びかけた話が残っているが、私も年齢のせいで人の死に際には関心が高くなってきた。夢の中で自分の死をシミュレートしていることに、はっと気づいて目覚めたりもする。夏の夕暮れの海岸地域では、海からの風が嘘のようにぱたっと落ちて、息詰まるような暑さに見舞われるが、人生の最後にもまたそのような状態になるのだろうか。つまり、傍目には死の病の苦しみがばたっと止んだように見え、しかし高熱だけは残っていて、そこから死が徐々に確実に忍び寄ってくる。と、作者にはそう思えたのだ。他者の死にはこれ以上深入りできないわけだが、この「風立ちぬ いざ生きめやも」とは正反対のベクトルがはっきりしているという意味で、私にとっては印象深い抒情句となった。『無量』(2013)所収。(清水哲男)
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