まあ、よく降りますね。しかも、本降りの日が多い。これが所謂「送り梅雨」かな。




2003ソスN7ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 1572003

 いちまいにのびる涼しさ段ボール

                           寺田良治

語は「涼し(さ)」。俳句では、暑さのなかに涼味を捉えて、夏を表現する。「月涼し」「草涼し」「海涼し」等々。多くの用例では、秋に入って身体に感じる涼しさとは違い、心理的精神的な涼しさの色が濃い。掲句も、その一つだ。その一つではあるけれど、いかにも現代的な涼しさを発見していて面白い。実際、押し入れや部屋の片隅に積んである段ボール箱は、見るだけで鬱陶しく暑苦しい感じがする。引っ越しのときの箱がいつまでもそのまんまだったりすると、苛々も手伝って、ことのほかに暑苦しい。最近では真っ白な段ボール箱も見かけるが、暑苦しいのは外見の問題じゃないのだ。なかの荷物の未整理への思いが、人の心をかき乱すのだからである。作者は、ようやくそんな段ボール箱の中身を取りだして整理しおえた。不要になった箱は、現今では、リサイクルのために「いちまいに」伸ばして出すことを義務づけている自治体がほとんどだろう。で、作者も丁寧に「いちまいに」伸ばしたのである。伸ばした経験のある読者ならばおわかりのように、あれは適度な紙の固さがあるので、実に簡単にきれいに伸びてくれる。紙封筒などを開いて伸ばすのとは、わけが違う。いままで暑苦しかった形状はどこへやら、たちまちすっきりと「いちまいに」伸びてくれる段ボールに、作者の気持ちもすっきりと晴れていく。そこに「涼しさ」を感じたというのであるが、むべなるかな。よくわかります。『ぷらんくとん』(2001)所収。(清水哲男)


July 1472003

 花火待つ水と流れしものたちと

                           久保純夫

の週末あたりから、各地で花火大会が開かれる。子供たちの夏休みがはじまるし、ちょうど梅雨も明けるころだ。「梅雨明け十日」と言い、夏の天気が最も安定する時期である。そこをねらっての開催だろう。花火を待つ気分には、同じ屋外の催しでも、野球やサッカーなどとは違った独特のものがある。あれはおそらく、楽屋裏というか、下の準備の状況がまったく見えないからではないだろうか。おまけにプレイボールの声がかかるわけじゃなし、いきなりドカンとくるわけで、「さあ、はじまるぞ」という緊張感を盛り上げていくのが難しい。所在なく空を見上げたり腕時計を見てみたりと、まことに頼りなくも奇妙な時間が流れていく。掲句の「水と流れしもの」は「『水』と『流れしもの』」の並列ではなく、「水と(して)流れしもの」と読むべきだろう。そんな奇妙な時間のなかにいて、作者は眼前の川の流れを見ているうちに、この流れとともにこれまでに流れ去ったもの、既に眼前にはないもの、しかしかつてはここに明らかに存在したものに思いが至った。そのすべては、生命あるものだった。いつの間にか周囲の群衆よりも、そのような過去に存在したものたちのほうに意識が傾いて、それらのものと一緒にいる気持ちになったというのである。そして、いまこの場にいる私も周囲の群衆も、いずれはみな「水と流れしもの」と化してしまうのだ。これから打ち上げられる花火もまた、束の間の夢のようにはかない。水辺での幻想というよりも、もっと実質的にたしかな手応えのある抒情詩と受け取れた。『比翼連理』(2003)所収。(清水哲男)


July 1372003

 百日紅きのうのことは存じませぬ

                           新田美智子

語は「百日紅(さるすべり)」で夏。「昨日のことは存じませぬ」とはまた、ずいぶんとシレッとした物言いであることよ。しかし、言われてみれば納得である。これからの暑い季節を物ともせずに咲き通すには、これくらいの図太さがなければ、やっていられないだろう。次から次へと新しい花を咲かせていくのだから、昨日のことなどにうじうじと拘泥していたのでは身が持たない。そりゃ、ときには失敗もあれば戸惑いもあるさ。でも、それらをいちいち反省したり内省したりしている余裕などは無いのである。常に、目の前にはやるべきことが待機している。それをやらなきゃ、身の破滅。人間で言えば、働き盛りの年代に通じる物言いが「昨日のことは存じませぬ」だ。私の感受性に従えば、百日紅は幹の独特な形状も手伝って、たとえ樹齢は若くても、あまり若さを感じさせない樹木の一つである。実際、百日紅を見て、青春性を感じる人はあまりいないのではあるまいか。同じ真夏の花でも、夾竹桃の元気さには青春の気があるというのに。そんな中年パワーに溢れた百日紅も、秋口の冷たい風が吹きはじめるころには、さすがに勢いが衰えてくる。それでも懸命にてっぺんの方にいくつかの花をつけつづける姿には、かつての猛烈サラリーマンの悲哀感が漂うようで、見ていて辛くなる。いや、そうなると、振り仰ぐ人もほとんどいなくなってしまうので、そのことも含めての哀れさが募るのである。百日紅の句は数あれど、衰えてきた姿を詠んだ句は見たことがない。掲句の作者は二十代だそうだが、秋の百日紅がいったいどんな台詞を吐くのか、十年後くらいにぜひとも「つづき」を書いてほしい。俳誌「里」(第3号・2003)所収。(清水哲男)




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