ボーナスセール。私はもともと無縁だけれど、急に無縁になった人の胸中や如何に。




2003ソスN7ソスソス18ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 1872003

 灼けし地にまる書いてあり中に佇つ

                           後藤綾子

語は「灼けし(灼く)」で夏。「砂灼ける」「風灼ける」などとも使う。真昼の炎天下、まったく人通りのない道を通りかかることがある。句の場合は、住宅街の一画だ。道には、まだ涼しい時間に遊んでいた子供が書いたのだろう。石けり遊びか何かの「まる」がぽつんと残されていた。その「中に佇(た)」ってみましたというだけの句だけれど、猛暑の白昼にある作者の精神的な空漠感がよく出ている。子供ならちょっとケンケンの仕草でもしそうな場面だが、大人である作者はただ佇っているのだ。「立つ」よりも「佇つ」のほうには、やや時間的に長いというニュアンスがあり、それが一種の空漠感を連想させる。最初は茶目っ気も手伝って、懐しい「まる」の中に立ってみようとした。が、実際に立ってみると、しばし佇立することになってしまった。と言っても、べつに「まる」の中でおもむろに来し方を回想したり、往時茫々の思いにとらわれたわけではないだろう。第一、暑くてそれどころじゃない。そういうことではなくて、微笑して見過ごしてしまえばそれですんだものを、わざわざ中に入ってみたばかりに、意外な精神状態の変化が起きたということだと思う。ナンセンスと言えばナンセンスな行為によって、ふっと人は思ってもみなかった別世界に連れていかれることがある。暑さも暑し、「まる」の中の作者の心はほとんど真っ白だ。いったいあれは何だったのかと、この句を作りながらも、なお作者は訝っているかのようである。『一痕』(1995)所収。(清水哲男)


July 1772003

 メロン掬ふ富士見え初めし食堂車

                           小坂順子

食堂車
語は「メロン」で夏。「掬ふ」は「すくう」。もう、こんな汽車の旅はできない。現在「北斗星」など一部の特別夜行列車にはあるが、「食堂車」を連結している昼行列車は完全に姿を消してしまった。新幹線から食堂車が無くなったのは、2000年初夏のことである。「のぞみ」には、最初から食堂車もビュッフェもなかった。初期の「のぞみ」に乗ったとき、隣席の人品卑しからぬ初老の紳士から「あのお、食堂車はどこでしょうか」と尋ねられたことを思い出す。句が作られた列車は、在来の東海道線特急だろう。東京大阪間を6時間半で走った。「メロン」は、デザートだろうか。食事も終わりに近づいたところで、富士山が見えてきた。何でもない句だけれど、楽しくも満ち足りた作者の旅行気分がよく出ている。昔の汽車旅行は目的地に着くまでにも楽しみがあった。ゆっくりと流れていく車窓からの風景を眺めながら、食事をする楽しみもその一つ。もっとも、私はいつもビールがメインだったけど(笑)。ただ、街のレストランなどに比べると、料金は高かった。その列車の乗客だけが相手の店なので、無理もないか。いったい、いくらくらいだったのだろう。かなり古い数字だが、たとえば1952年(昭和27年)の特急「つばめ」「はと」のメニューを見ると、こんな具合だ。「ビーフステーキお定食(ビーフステーキ野菜添え、コーヒー・パン・バター付) 350円」「プルニエお定食(鮮魚貝お料理野菜添え、コーヒー・パン・バター付) 300円」。ビール大瓶90円、コーヒー50円、サイダー45円、メロンなどの果物は「時価」とある。町で食べるソバが20〜25円のころだったと思うと、うーむ、やっぱり高いっ。『俳諧歳時記・夏』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)


July 1672003

 爛々とをとめ樹上に枇杷すゝる

                           橋本多佳子

語は「枇杷(びわ)」で夏。実の形、あるいは葉のそれが楽器の琵琶に似ていることからの命名と言われる。掲句の枇杷の樹は野生のものだろう。調べてみると、大分、山口、福井などで、いまでも野生種が見られるそうだ。少年時代、まさにその山口の田舎に枇杷の樹があった。我が家が飲み水を汲んでいた清冽な湧水池の辺に立っており、高さは十メートルほどもあったと思う。葉が濃緑色の長楕円形をしていたせいで、なんとなく陰気な感じを受ける樹だった。でも、その樹に登ったり、実を食べたことはない。池の辺といっても、向こう岸の深い薮のある斜面にあったため、とても子供が近寄れる場所ではなかったからだ。この句を読んで、はじめて枇杷が登れる樹であることを知ったのだった。木刀にするくらいだから、固くて折れる気遣いはない樹なのだろう。その頑丈な樹に、さながら猿(ましら)のようにするすると登って実をもぐや、一心に「すゝ」っている「をとめ」の姿。まるで映画の野生児ターザンの相棒のジェーンみたいだけれど、おそらくこの「をとめ」は少女のことだろうから、ジェーンよりはかなり年下だ。が、その姿はまさに「爛々(らんらん)」たる野性味に溢れていて、その存在感に作者は圧倒されつつも感に入っている。この場合、樹上の人物が少女ではなくて少年だとすると、さしたる野性味は感じられない。ターザン映画でも、なぜかジェーンのほうに野性味があった。不思議だ。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)




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