谷川俊太郎編『祝魂歌』(ミッドナイト・プレス)は久しぶりの名アンソロジーだ。




2003N722句(前日までの二句を含む)

July 2272003

 斑猫やわが青春にゲバラの死

                           大木あまり

語は「斑猫(はんみょう)」で夏。山道などにいて、人が近づくと飛び立ち、先へ先へと飛んでいくので「道おしえ」「道しるべ」とも言われる。作者はこの虫に従うようにして歩きながら、ふっと革命家・ゲバラのことを思い出した。カストロなどとキューバ革命を成功させ、国立銀行総裁を振り出しとする中枢の地位にありながら、その要職を抛ってボリビアでの困難極まるゲリラ闘争に参加し殺された男のことを……。ゲバラがボリビア政府軍によって射殺されたのは1967年のことだった。アルゼンチンの中流家庭に生まれ医師となり、そこではじめて社会の激しい矛盾に出会ってから、すべてのエネルギーを革命に注ぎ込んだ男のことは、遠い日本にも鳴り響いていた。折しもベトナム戦争は泥沼の様相を露わにし、日本では全共闘運動がピークに達しようとしていた。大学という大学がバリケード封鎖されたといっても、今日の若者にはまったくピンと来ないだろうが、そんな異常事態が自然な状態に思えるほど、当時の世界は混沌としていた。右から左まで、どんな思想の持ち主でも、明日の世界を思い描くことはできなかったろう。このときに、あくまでも信念を曲げずに一ゲリラとして闘っていた男の姿は、多くの若者に偉大に写った。人間が人間らしくあることの、一つのまさに「道しるべ」なのであった。だから、彼の死がどこからともなく噂として流れてきたときには、私も作者と同じように重い衝撃を受けた。咄嗟に「嘘だっ」と反応した記憶がある。ボードレールとパブロ・ネルーダとシュペングラーをこよなく愛した革命家。ゲバラのような男は、もう出てこないだろう。「あのころ、世界で一番かっこいいのがゲバラだった」(ジョン・レノン)。『火球』(2001)所収。(清水哲男)


July 2172003

 アカンサス凛然として梅雨去りぬ

                           吉村公三郎

アカンサス
かなか明けてくれませんね。長梅雨です。早く明けてくれとの願いを込めての今日の句の作者は、たぶん『偽れる盛装』『夜の河』などで知られる映画監督だろう。季語は「アカンサス」で夏だが、葉が春に咲く薊(あざみ)のそれに似ているので、和名を「葉薊」という。写真で見られるように、葉は薊よりも大きくて猛々しい感じがし、花は真っすぐな穂に咲き登る。そこが「凛然として」の措辞にぴたりと通じている。また、この「凛然として」は、アカンサスの姿の形容であると同時に、梅雨の去り際の潔さにも掛けられているのだと思う。今年のように、いつまでもうじうじととどまっていない梅雨だ。降るだけ降ったら(といっても、今回の九州豪雨のように過剰に降るわけじゃない)さっと引いて、あとにはまったき青空だけを残していく。そんなダンディズムすら感じさせる梅雨も、たしかに何年かに一度はある。ところで、アカンサスの元祖は南ヨーロッパだ。花よりも葉の形状が愛されていたようで、古代ギリシアやローマのコリント式やコンポジット式建築の柱冠の装飾に、アカンサス葉飾りとして図案化されている。そして、この葉飾りを、実は現代日本の私たちも日常的にしばしば目にしていることを知る人は、案外と少ない。手元に一万円札があったら、開いて表裏をよく見てください。上下の縁のところに細長くプリントされている文様が、他ならぬアカンサスなのです。あとは、賞状などの縁飾りにも、よくアカンサスが使われています。『俳句の花・下巻』(1997・創元社)所載。(清水哲男)


July 2072003

 扇子の香女掏摸師の指づかひ

                           佐山哲郎

ろん「掏摸(すり)師」は立派な犯罪者だ。ただ空巣や強盗とは違って、昔から変な人気がある。というのも、常人にはとても真似のできない指技を、彼らが習得しているからだろう。フィクションの世界では、美貌の女掏摸師がよく活躍する。時代物では、擦れ違った瞬間に目にもとまらぬ早業で掏摸取った懐中物を手に、艶然と微笑する姿が定番でもある。犯罪者ではあるけれど、正義の味方の味方だったりする役どころはフィクションならではだが、これもやはり芸術的な指技を惜しんでの作者の人情からではあるまいか。掲句の女掏摸師ももとよりフィクションだけれど、そんな掏摸師に「扇子」を使わせたところが面白い。なるほど手練の掏摸師ともなると、扇子のあおぎようにだって微妙な指技が働くにちがいない。したがって、送られてくる「扇子の香」にもまた普通とは違うものがあるだろう。この句は、かつての都電の情景を系統別に詠んだ「都電百停」のなかの一句(33系統 信濃町)だから、いわば現代劇の一シーンだ。私の若い頃、ロベール・ブレッソン監督の映画『掏摸』(1960)を見た後の何日かは、街にいると、誰も彼もが掏摸に思えて仕方がなかったようなことがあった。その映画には、掏摸の手口が具体的に生々しく公開されていたので、余計にそんな気分にならされたと思うのだが、作者のこの発想も、何らかのフィクションに触発されてのことかもしれない。作者は単に、走る都電の中で扇子を使う女性客を見かけただけだ。それをあろうことか掏摸師に見立てたせいで、おそらくは俳句にはじめての女掏摸師が登場することになった。そんな自分だけの想像のなかの相手に、ちょっと身構えているようなニュアンスもあって可笑しい。でも、これからの行楽シーズン、本物の掏摸にはご用心を。我が家の短い歴史のなかでも、これまでに二度、芸術的な指技の餌食になっている。『東京ぱれおろがす』(2003)所収。(清水哲男)




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