PLAYBOY、PENTHOUSE、HUSTLER。HPを見るかぎり画一化が甚だしい。無惨也。




2003ソスN7ソスソス23ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 2372003

 美しい数式になるみずすまし

                           中山美樹

句で「みずすまし」と言えば、たいがいは「水馬」と書く「あめんぼう」のことだ。水面を細長い六本の脚で滑走する。が、生物学的分類では「鼓虫」と書く「まいまい」のこと。こちらは、水面に輪を描いて動き回る小さな黒い紡錘形の甲虫だ。ややこしいが、関西では今でも水馬を「みずすまし」と呼んでいるはずである。すなわち、昔の俳句の中心は京都だったので、歳時記的にも関西での呼称が優先されて残っているというわけだ。掲句の場合も、作者が「数式」に見えるというのだから、俳句で言ってきたほうの虫のことだろう。動きによっては、ルート記号やら微積分記号やら何やらに見えそうだからだ。この虫の動きは、じいっと流れに身をゆだねているかと思うと、突然ぱぱっと活発な動きを示す。句の趣旨に添って言うと、何か咄嗟に難しい計算をしているようでもある。たしかに数学に関心のある人だったら、一連の動きが「美しい数式」を生みだすように見えるだろう。見立てとは面白いもので、見立てた結果はその人の興味や関心のありようを、逆に照らし出すことにもなる。作者の数学的関心がどの程度のものかはわからないにしても、水馬の動きに数式をイメージする感覚はユニークと言わねばならない。先日、近々単行本になる『博士の愛した数式』を書いた小川洋子さんと対談した。この小説の中心素材も、まさに美しい数式である。実生活には何の役にも立たないはずの数式が、実は現実の人の心を最も深く結びつけるツールとなる展開は見事だ。私は下手の横好きでしかないけれど、俳句にもこうして数式が出てきたことを嬉しく思う。ついでに、その小説に出てくる数式ならぬ「数」の話を一つだけ。自然数nの、nを除くすべての約数の和がnに等しいとき、そのnを「完全数」という。例えば、6(=1+2+3)のように。そして、6の次の完全数は28(=1+2+4+7+14)である。この「28」こそが、博士の愛してやまなかった阪神・江夏豊投手の背番号だったという小川さんの設定は面白い。完全数は無限にあるそうだが、28の次は何だろう。時間に余裕のある方は探してみてください。『おいで! 凩』(2003)所収。(清水哲男)


July 2272003

 斑猫やわが青春にゲバラの死

                           大木あまり

語は「斑猫(はんみょう)」で夏。山道などにいて、人が近づくと飛び立ち、先へ先へと飛んでいくので「道おしえ」「道しるべ」とも言われる。作者はこの虫に従うようにして歩きながら、ふっと革命家・ゲバラのことを思い出した。カストロなどとキューバ革命を成功させ、国立銀行総裁を振り出しとする中枢の地位にありながら、その要職を抛ってボリビアでの困難極まるゲリラ闘争に参加し殺された男のことを……。ゲバラがボリビア政府軍によって射殺されたのは1967年のことだった。アルゼンチンの中流家庭に生まれ医師となり、そこではじめて社会の激しい矛盾に出会ってから、すべてのエネルギーを革命に注ぎ込んだ男のことは、遠い日本にも鳴り響いていた。折しもベトナム戦争は泥沼の様相を露わにし、日本では全共闘運動がピークに達しようとしていた。大学という大学がバリケード封鎖されたといっても、今日の若者にはまったくピンと来ないだろうが、そんな異常事態が自然な状態に思えるほど、当時の世界は混沌としていた。右から左まで、どんな思想の持ち主でも、明日の世界を思い描くことはできなかったろう。このときに、あくまでも信念を曲げずに一ゲリラとして闘っていた男の姿は、多くの若者に偉大に写った。人間が人間らしくあることの、一つのまさに「道しるべ」なのであった。だから、彼の死がどこからともなく噂として流れてきたときには、私も作者と同じように重い衝撃を受けた。咄嗟に「嘘だっ」と反応した記憶がある。ボードレールとパブロ・ネルーダとシュペングラーをこよなく愛した革命家。ゲバラのような男は、もう出てこないだろう。「あのころ、世界で一番かっこいいのがゲバラだった」(ジョン・レノン)。『火球』(2001)所収。(清水哲男)


July 2172003

 アカンサス凛然として梅雨去りぬ

                           吉村公三郎

アカンサス
かなか明けてくれませんね。長梅雨です。早く明けてくれとの願いを込めての今日の句の作者は、たぶん『偽れる盛装』『夜の河』などで知られる映画監督だろう。季語は「アカンサス」で夏だが、葉が春に咲く薊(あざみ)のそれに似ているので、和名を「葉薊」という。写真で見られるように、葉は薊よりも大きくて猛々しい感じがし、花は真っすぐな穂に咲き登る。そこが「凛然として」の措辞にぴたりと通じている。また、この「凛然として」は、アカンサスの姿の形容であると同時に、梅雨の去り際の潔さにも掛けられているのだと思う。今年のように、いつまでもうじうじととどまっていない梅雨だ。降るだけ降ったら(といっても、今回の九州豪雨のように過剰に降るわけじゃない)さっと引いて、あとにはまったき青空だけを残していく。そんなダンディズムすら感じさせる梅雨も、たしかに何年かに一度はある。ところで、アカンサスの元祖は南ヨーロッパだ。花よりも葉の形状が愛されていたようで、古代ギリシアやローマのコリント式やコンポジット式建築の柱冠の装飾に、アカンサス葉飾りとして図案化されている。そして、この葉飾りを、実は現代日本の私たちも日常的にしばしば目にしていることを知る人は、案外と少ない。手元に一万円札があったら、開いて表裏をよく見てください。上下の縁のところに細長くプリントされている文様が、他ならぬアカンサスなのです。あとは、賞状などの縁飾りにも、よくアカンサスが使われています。『俳句の花・下巻』(1997・創元社)所載。(清水哲男)




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