高校野球東東京大会で、都立雪谷高が延長13回の死闘を制して決勝へ。がんばれ !!




2003ソスN7ソスソス28ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 2872003

 梅雨明けや胸先過ぐるものの影

                           吉田鴻司

日までに、東海北陸地方以西で梅雨が明けた。関東甲信地方も昨日の空の様子からして、やっと今日あたりには明けてくれそうである。今年はあまり梅雨の晴れ間もみられず、長い雨期だったというのが実感だ。九州では、大出水による被害が甚大だった。これからは一気に暑さが高まるのだろうが、鬱陶しい梅雨の明ける解放感は心地よい。梅雨明けの喜びを何に感じるかは人さまざまだろうけれど、私は作者と同様に、まずは日の光りに感じる。強い日の光りは濃い影を生む。「胸先」を過ぎてゆくあれやこれやの「ものの影」は、つい昨日までのぼんやりとした影とも言えないような影とは違って、鮮明である。その鮮明さが楽しく、作者は胸をしゃんと張って歩いている。というわけで、掲句は喜びを視覚的に捉えた句だが、聴覚的、臭覚的に詠んだ句も多い。一つずつ例をあげておこう。本宮銑太郎の「梅雨明けのもの音の湧立てるかな」は、掲句の視覚的な素材をそっくり聴覚的に置き換えたような作品だ。朝の時間だろう。久しぶりに開け放った窓から入ってくる「もの音」は、世の中にはこんなにいろいろとあったのかと驚くほどに、次から次へと湧き立ってくるのであった。臭覚的に捉えた作品のなかでは、林翔の「梅雨明けや深き木の香も日の匂」が好きだ。ひとり、山中にある情景か。上掲の二句が胸弾むように詠んでいるのに比べて、この句は静かに染み入るような感情を醸し出している。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


July 2772003

 土用鰻劉寒吉の歌と待つ

                           八木林之助

日は土用丑の日。夏バテ防止に鰻(うなぎ)を食べる風習かある。いつもの夏なら鰻屋さん大繁盛の日だが、梅雨寒の東京あたりではどうだろうか。作者は、しかるべき店で注文し、料理が運ばれてくるのを待っている。箸袋にか、あるいは店内に飾られている色紙にか、劉寒吉(りゅう・かんきち)の歌が書かれているのだから、店のある場所は九州の鰻の名産地・柳川だろう。天然鰻で昔から有名なのは、利根川産の「下総(しもうさ)くだり」、手賀沼産の「沼くだり」、そして柳川産の「あお」と言われる。もっとも、最近はどこへ行っても、まず天然鰻にお目にかかることはないけれど……。現在の柳川では年間50万匹以上の鰻が食べられるため、河畔に鰻の供養碑が建てられており、その碑に刻まれているのが九州の著名作家・劉寒吉直筆の次の歌だ。「筑後路の旅を思えば水の里や柳川うなぎのことに恋しき」。供養の意味などどこにもない歌だし、なぜ供養のための碑に刻まれたのかは不可解だけれど、とりあえず他に適当な柳川の鰻を詠んだ歌がなかったので、これにしちゃったのだろう。むしろ句にある店のように、鰻の宣伝に使うほうが正しい使い方だ(笑)。こんな歌を読んで待っていると、どんなに美味い料理が出てくるのかと期待に胸が弾む。ちゃんとした店になればなるほど、出てくるまでに時間がかかるので、なおさらに歌の食欲助長効果は抜群と言わざるを得ない。ちょっとわくわくするような気分で待っている感じが、よく出ている。今日も柳川のどこかの店では、こんなふうにして待つ人がいるのだろう。『合本俳句歳時記』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


July 2672003

 桔梗や男に下野の処世あり

                           大石悦子

語は「桔梗(ききょう・きちこう)」。秋の七草に入っているので秋季に分類されてきたが、実際には夏の花だろう。関東地方などでは、もうとっくに散ってしまったのではなかろうか。歯切れよく咲くという感じ。凛然として鮮烈に花ひらく。一見そんな花の様子にも似て、世の「男」は潔く「下野(げや)」していくようには見えるが、実はその裏側で、ちゃっかりと「処世」の計算を働かせてのことなのだと手厳しい。官僚の天下りなどは典型だろう。後進に道をゆずると言えば格好はよろしいが、なあに、早い話が退職金をたんまりせしめて今よりも楽な仕事に就き、できるだけ遊んで暮らそうという魂胆なのだ。官僚にかぎらず、定年退職するサラリーマンでも、職場での地位が高い連中に多く見られる。「ま、当分はオンボロ子会社に籍だけ置いて……」などと、悠長にして姑息なことを言う。オンボロだろうが何だろうが、働きたくても働き口のない人で溢れている現代でも、一方ではこうした「処世」術のまかりとおる連中がいるのだ。……というようなことをよく知ってはいても、実は男はあまりそのようなことについて指摘したり指弾することを好まない。少なくとも、私はそうである。この野郎とは思っても、そんな連中に何かを言い立てれば言い立てるほど、自分が惨めになる気がするからだ。だから掲句を見つけたときには「よくぞ言って下さいました」と一も二もなく賛同はしたのだったが、ここに書くまでには相当の時間を要した。おのれのひがみ根性があからさまになるようで、ずうっと躊躇していた。もはや世間的な対面なんぞはとっくに捨てたはずなのに、いつまでも駄目なんだなあ。それこそ「桔梗」のように凛としてみたいよ。『百花』(1997)所収。(清水哲男)




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