蜷臥伐魘サ蜿ク縺ョ句

July 2872003

 梅雨明けや胸先過ぐるものの影

                           吉田鴻司

日までに、東海北陸地方以西で梅雨が明けた。関東甲信地方も昨日の空の様子からして、やっと今日あたりには明けてくれそうである。今年はあまり梅雨の晴れ間もみられず、長い雨期だったというのが実感だ。九州では、大出水による被害が甚大だった。これからは一気に暑さが高まるのだろうが、鬱陶しい梅雨の明ける解放感は心地よい。梅雨明けの喜びを何に感じるかは人さまざまだろうけれど、私は作者と同様に、まずは日の光りに感じる。強い日の光りは濃い影を生む。「胸先」を過ぎてゆくあれやこれやの「ものの影」は、つい昨日までのぼんやりとした影とも言えないような影とは違って、鮮明である。その鮮明さが楽しく、作者は胸をしゃんと張って歩いている。というわけで、掲句は喜びを視覚的に捉えた句だが、聴覚的、臭覚的に詠んだ句も多い。一つずつ例をあげておこう。本宮銑太郎の「梅雨明けのもの音の湧立てるかな」は、掲句の視覚的な素材をそっくり聴覚的に置き換えたような作品だ。朝の時間だろう。久しぶりに開け放った窓から入ってくる「もの音」は、世の中にはこんなにいろいろとあったのかと驚くほどに、次から次へと湧き立ってくるのであった。臭覚的に捉えた作品のなかでは、林翔の「梅雨明けや深き木の香も日の匂」が好きだ。ひとり、山中にある情景か。上掲の二句が胸弾むように詠んでいるのに比べて、この句は静かに染み入るような感情を醸し出している。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


November 12112006

 地の温み空のぬくみの落葉かな

                           吉田鴻司

の欄を担当することになってから三ヶ月が経ちました。同じ日本語でありながら、俳句がこれほど詩とは違った姿を見せてくれるものとは、思いませんでした。言わずに我慢することの深さを、さらに覗き込んでゆこうと思います。さて、いよいよ冬の句です。掲句、目に付いたのは「ぬくみ」という語でした。「ぬくみ」ということばは、「てのひら」や「ふところ」という、人の肌を介した温かさを感じさせます。ですから、この句を読んだときにまず思ったのは、森や林の中ではなく、人がしじゅう通り過ぎる小さな公園の風景でした。マンションの脇に作られた公園の片隅、すべり台へ向かって、幼児が歩いています。幼児の足元を包む「落ち葉」のあたたかさは、もとから地上にあったものではなく、空からゆらゆらと降ってきたものだというのです。きれいな想像力です。むろん、上から落ちてくるのは、鮮やかな色に染まった一枚一枚の葉です。ただ、この句を読んでいると、葉とともに、空自体が地上へ降り立ったような印象を持ちます。透明な空が砕けて、そのまま地上へかぶさってきたようです。人々が落ち葉とともに足元に触れているのは、空の断片ででもあるかのようです。句全体に、高い縦の動きと、深い空間を感じることができます。幼児のそばにはもちろん母親がいて、動きをやさしく見守っています。この日に与えられた「ぬくみ」の意味を、じっと考えながら。俳誌「俳句」(角川書店・2006年9月号)所載。(松下育男)


October 28102011

 水鳥の月夜も道をつくりをり

                           吉田鴻司

和55年作のこの句には前書きがある。「樋本詩葉氏の絶句『ゆりかもめ山河のうねり京にいる』あり」と。いるは入るの意味だろう。樋本詩葉という名前から僕の極めて個人的な記憶が蘇った。44年に米子の高校を出て京都の予備校に入った僕は上賀茂の近くで寮生活をしていた。この頃すでに俳句を始めていた僕は上賀茂御園橋のたもとにある民家の開け放った玄関の中に見える草田男の掛け軸が気になってしかたがなかった。表札の詩葉という名前とその掛け軸から俳人のお宅だろうと推測した僕は突然無謀にも門を入って「俳句をやってらっしゃるんですか」と声を掛けた。細身の品のいいご主人が出ていらして「丸山海道先生の句会をやっていますから、いつでもどうぞ」とお誘いをいただいた。今から思うと汗顔の至りである。海道さんの句会に出た僕は講評までいただく幸運を得たが、詩葉氏宅での句会出席はその一度きりに終った。浪人という自分の立場を少しは考えたのである。その後の人生の俳句との関りの中でこの体験を時折思い出してはいた。このたび鴻司さんの句集を読んでこのお名前を見て詩葉さんがお亡くなりになられたこと。鴻司さんと交流があられたことを初めて知った。御園橋のお宅は京都市の北端にあるから「山河のうねり京にいる」の景もまさにそのまま。その絶句を踏まえた「道をつくりをり」もみごとな悼句というほかはない。そしてその道の端を僕も一時歩かせていただいたのだとつくづく思ったしだいである。『吉田鴻司全句集』(2011)所収。(今井 聖)


March 2432012

 山彦の山を降り来よ蓬餅

                           吉田鴻司

彦は、山の神であり精霊であり妖怪の一種でもあるらしい。確かに、自分の声と分かっていても誰かが答えてくれている気がする。この句の作者は、山を眺めつつ山に親しみ、山彦に、降りておいで、と呼びかけている。自分の子供の頃の山暮らしを振り返っても、春が一番思い出深い。土筆や蓬を摘み、れんげ畑で遊び、すべてが光り出す頃の記憶は、風の匂いとともに鮮明であり、蓬餅の草の香りがまたなつかしさを深くする。そんなことを思いながら読んだ句集のあとがきに「私は山に母を感じるのである」とある。山彦は母の声となって還ってくる、と語る作者だからこそ、降り来よ、がやさしく感じられるのだろう。春の山が微笑んでいる。『吉田鴻司全句集』(2011)所収。(今井肖子)




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