July 292003
鱶の海青きバナヽを渡しけり
杉本禾人
季語は「バナヽ(バナナ)」で夏。「バナヽ」の表記からもわかるように、古い句だ。虚子が書いた「ホトトギス」の雑詠評『進むべき俳句の道』(角川文庫・絶版)に出てくるから、どんなに新しくても大正初期までの作品である。虚子はこの句を「繪日傘に百花明るき面輪哉」などとともに、作者が色彩に敏感な例として選んでいる。以下は、虚子の解釈だ。「鱶(ふか)のたくさんゐる大洋をたくさんの青い芭蕉の實を乘せた船が航海しつつあるといふのであるが、それを大洋ともいはず、汽船ともいはずただ鱶の海といひ、青きバナヽを渡したといふところにこの句の特別な感興はある。これも畢竟作者の感興は、バナヽの青い色にあつて、それを乘せてゐる船などはこれを問ふ必要はなく、また大洋もこの場合他の性質を持出す必要はなく、鱶のたくさんゐるやうな恐ろしい海であることだけを現はせば十分なのであつて、その鱶のゐるやうな大洋の上を、もぎたての青いバナヽは南の島から北の國へと運ばれつつある、といつたのである」。とくに異議をさしはさむところのない解釈だ。ただ面白いなと思うのは、この句が発想を得た実際の光景がどんなふうであるのかを、虚子が躍起になって説明している点である。この句だけをポンと出されたとすると、瞬間、誰にもかなり特異なイメージが浮かんでくるはずだ。私などは句そのままに、凶暴な鱶の群れる海の上を呑気な感じで巨大な青いバナナが渡って行く絵を想像してしまった。つまり、シュルレアリスムの絵か、あるいは現代風なポップ感覚のそれをイメージしたわけで、その意味から悪くないなと思ったのだが、作者が句を書いたころには、むろんそんな絵は存在しない。だから虚子は、掲句をそのまんまに突飛なイメージとして読んではいけない、元はといえばごく普通の情景を詠んだものだからと、口を酸っぱくしているのだ。この句が現代に登場したとするならば、おそらくはそのまんまの姿で楽しむ読者が大半だろう。もはや、虚子の躍起の正論は通用しないのではあるまいか。すなわち、句の解釈もまた世に連れるということである。(清水哲男)
『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます
|