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July 3072003

 統計的人間となりナイターに

                           中村和弘

球には勝率だの打率だのと、いろいろな数字がつきものだ。他のスポーツに比べて、だんぜん多い。「統計」という文字から、作者は球場でそうした数字をあれこれと浮かべながらゲームを楽しんでいる。と、最初は思ったが、どうやらそういうことではないらしいと思い直した。そうではなくて、今夜の入場者数は五万人だとか三万人だとかと言うときの、その統計的数字に自分も入っているという意味だろう。たしかに、同じ目的で集まった何万人もの人のなかにいると、なんとなく自分が無機的な存在になったような気がする。それを称して「統計的人間」と言ったのだと思う。その試合がたまたま歴史に残るような好ゲームだったりすると、あとで「あのときの三万人のなかに俺もいたんだ」と回顧したりするから、決して自嘲的な意味で「統計的人間」と言っているのではないことに留意しておきたい。ところで、掲句の季語はむろん「ナイター」で夏季だが、ドーム球場が増えてきた現在では、だんだん実感が伴わなくなってきた。ドームに季節は関係ないからだ。いつの日かすべての球場がドーム化されてしまえば、この季語も消滅する。そうなると、野球に関連した季語で残るのは一部の歳時記や当サイトで採用している「日本シリーズ」くらいのもので淋しいかぎりだ。野球季語といえば、戦前から戦後しばらくにかけて「(東京)六大学リーグ戦」という季語が歳時記に採用されたことがあるという。村山古郷が1968年に書いた文章から引用しておく。「新季題として登場したが、流行の脚光を浴びることなく、廃れてゆく運命にあるように思われる。句に詠み込むに不適だという点があるのだろうか。現代俳人は『春闘』や『メーデー』を句にする。『ナイター』や『サッカー』が季題として詠まれている以上、『六大学リーグ戦』だけが不適とは思われない。季題として長すぎるというならば、『リーグ戦』と俳句的略称もできる筈だ。にもかかわらず、この季題がほとんど句にされていないのは、不思議である」。あの江川卓が早慶戦に憧れて慶応を受験するのは1977年のことだから、まだ六大学野球の人気が高かったころの文章だ。人気薄のいまなら詠まれないのもわかるが、当時としてはやはり不思議と言わざるを得ない。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)




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