August 082003
師の芋に服さぬ弟子の南瓜かな
平川へき
季語は「芋」と「南瓜」で、いずれも秋。ああ言えばこう言う。師の言うことに、ことごとく反抗する弟子である。始末に終えない。私も、高校時代にはそんな気持ちの強い生徒だったと思う。『枕草子』を読む時間に解釈を当てられ、我ながら上手にできたと思ったのだが、今度は文法的な逐語訳を求められた。勉強してないのだから、わかりっこない。が、私は言い張った。「古文でも現代文でも、意味がわかればそれでいいんじゃないですか。第一、清少納言が文法を意識して書いたはずもありませんしね」。まったく、イヤ〜な生徒だ。先生、申し訳ありませんでした。そんなふうだったので、二十代でこの句をはじめて読んだときには、とてもこそばゆい感じがしたのだった。ところで、作者は「ホトトギス」の熱心な投句者だったというが、虚子はこの人に辟易させられていたようだ。というのも、この人は一題二十句以下という投稿規定があるにもかかわらず、いろいろと見え透いた変名を使っては百句以上も投稿してきた。それも「ことにその句は随分の出鱈目で作者自身が慎重な態度で自選をさへすればその中から二十句だけ選んで、他はうつちやつてしまつても差支えないものであると分つた時には、いよいよ選者の煩労を察しない態度を不愉快に思ふのであつた」。その人にして、この句あり。にやりとさせられるではないか。虚子は一度だけ、秋田の句会で平川へきに会っている。「あまり年のいかないやりつ放しの人」と想像していたところ、なんと「端座して儀容を崩さない年長者」なのであった。高浜虚子『進むべき俳句の道』(1959・角川文庫)所載。(清水哲男)
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