ドイツから娘たちが来ている。向こうは酷暑ゆえ文字通りの避暑だが、こう寒くては。




2003ソスN8ソスソス16ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 1682003

 宙に足上げて堰越ゆ茄子の馬

                           鈴木木鳥

の故郷では盆の十六日の夜に、精霊流しを行った。環境汚染とのからみがあるので、現在もやっているかどうか。盆踊りとセットになっており、踊りが終わるとみんなで川辺に集まり、盆のものを流したものだ。なかには大きな精霊舟を流す家もあり、それらは前もって簡単に転覆しないようテストを繰り返した労作だった。数人の若い衆が腰くらいまで漬かる川に入り、竹竿を持って待機するうちに精霊流しがはじまる。流灯が漂いはじめると、ときどき思いがけないところから若い衆の姿が浮き上がり、なんだか小人国のガリバーみたいだった。彼らの役目は、燈篭や船が近くの岸や堰にひっかかって転覆しないよう竹竿を操ることだ。とくにすぐ下流の堰は難所で、全部が無事に乗り越えられるわけじゃない。掲句は、そんな難所にさしかかった船の「茄子の馬」が、あたかも生きているように前足を「宙」に上げ、懸命に乗り越えていった様子を描いている。思わずも「やった」という声を、小さく発したかもしれない。これでご先祖様も、無事にあの世にお帰りになれるだろう。茄子の馬の躍動感をとらえたところが見事だ。ところで、今夜は京都大文字の送り火だ。夜の八時にいっせいに点火されると、街全体がざわめく感じになる。毎年八月十六日と決まっているが、敗戦の年はどうしたのだろう。ふと、気になった。大きな戦災にあわなかった京都にしても、なにしろ玉音放送の次の日の行事だから、やはりそれどころじゃなかったろうとは思う。調べてみたけれど、わからなかった。『新版・俳句歳時記』(雄山閣出版・2001)所載。(清水哲男)


August 1582003

 玉音を理解せし者前に出よ

                           渡辺白泉

書に「函館黒潮部隊分遣隊」とある。いわゆる季語はないが、しかし、この句を無季句に分類するわけにはいかない。「玉音」放送が1945年(昭和二十年)八月十五日正午より放送された歴史的なプログラムであった以上、季節は歴然としている。天皇は「朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク 朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ」云々と文語文を読み上げたのだから、すっと「理解」するには難しかった。加えて当時のラジオはきわめて感度が悪く、多くの人が正直なところよく聞き取れなかったと証言している。なかには、天皇が国民に「もっと頑張れ」と檄を飛ばしたのだと誤解した人さえいたという。句の「理解」が、どんなレベルでのそれを指しているのか不明ではあるけれど、作者の怒りは真っすぐに直属の上官たちに向けられている。すべての下士官がそうではなかったにせよ、彼らの目に余る横暴ぶりはつとに伝えられているところだ。何かにつけて、横列に整列させては「前に出よ」である。軍隊ばかりではなく、子供の学校でも、これを班長とやらがやっていた。前に出た者は殴られる。誰も出ないと、全員同罪でみなが殴られる。特攻志願も「前に出よ」だったと聞くが、殴られはしないが死なねばならぬ。いずれにしても、天皇陛下の名においての「前へ出よ」なのであった。作者はそんな上官に向けて、天皇の威光を散々ふりかざしてきたお前らよ、ならば玉音放送も理解できたはずだろう。だったら、今度は即刻、お前らこそ「前に出よ」「出て説明してみやがれ」と啖呵を切っているのだ。この句を、放送を理解できなかった上官が、いつもの調子で部下を脅している情景と読み、皮肉たっぶりの句ととらえる人もいる。が、私は採らない。そんなに軽い調子のものではない。句は、怒りにぶるぶると震えている。『渡辺白泉句集』(1975)所収。(清水哲男)


August 1482003

 惜別や手花火買ひに子をつれて

                           鈴木花蓑

に対する「惜別(せきべつ)」の情なのかは、明らかにされていない。ただ「惜別」と振りかぶっているからには、間近に辛い別れが待っているのだろう。たとえば、人生の一大転機に際しての退くに退けない別離といったものが感じられる。そんな父親の哀しみを知る由もない子供は、花火を買ってもらえる嬉しさに元気いっぱいだ。せきたてるように「早く早く」と、父親の手を引っ張って歩いているのかもしれない。両者の明暗の対比が、作者の惜別の情をいっそう色濃くしている。手元に句集がないので、作句年代がわからないのが残念だ。略歴によれば、花蓑(はなみの)は、現在の愛知県半田市の生まれ。名古屋地方裁判所に勤めながら俳句グループを作っていたが、1925年(大正十四年)に家族を伴って上京し、高浜虚子の門を敲いた。虚子の膝元で俳句を学びたい一心での転居であつたという。他に特筆すべき転機もないようだから、おそらくはこのときの句ではなかろうか。公務員職をなげうってまで俳句に没入するとは、なんとも凄まじい執念だ。それでなくとも「詩を作るより田を作れ」の時代だった。独身の文学青年ならばまだしも、家族を巻き込んでのことだから、よほどの苦渋の果ての決心だったろう。もしもこの時期の句だとしたら、作者にはその夜の「手花火」の光りはどんなふうに見えただろうか。前途を祝う小さな祝祭の光りというよりも、やはり故郷を捨てることやみずからの才への不安などがないまぜになって、弱々しくも心細い光りに映ったのではなかろうか。後に出た『鈴木花蓑句集』の虚子の序文には「研鑽を重ねて、ホトトギス雑詠欄における立派な作家の一人となり、巻頭をも占めるようになって、一時は花蓑時代ともいふべきものを出現するようになった」とあるそうだ。(清水哲男)




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