四回で7死球とは。替えねば危険。大人の監督は何のためにいるんだ。岩国福井商戦。




2003ソスN8ソスソス21ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 2182003

 退院をして来てをられ秋簾

                           深見けん二

語は「秋簾(あきすだれ)」。涼しくなってくると、簾はしまいこまれる。が、どうかすると、しまい忘れて吊りっぱなしになっていたりする。汚れてみすぼらしい感じを受ける。だから、逆に人目につきやすいとも言え、通りがかりにそんな簾があると、見るともなく、つい目をやってしまう。作者も同様で、通りがかりに近所の家の窓の簾に目をやると、簾越しに人の影が認められた。ご近所とはいっても、平素はそんなに付き合いの無い家だ。親しければ、当然入退院の報せは届けられるからである。つまり、ぼんやりと家族構成(一人暮らしかもしれない)くらいは知っている程度で、ご主人の入院も人づてに聞いていたのだろう。むろん、病状など詳しいことは何も知らない。そう言えば、このところその人の姿も見かけないし、簾を吊った部屋も閉じられていることが多かったような……。そんなわけで、何となく気になっていたところ、いま認めた人の影はまぎれもなくその人のものだった。ああ、早々に退院して来られたのだな。そう思ったら、それこそ何となく気持ちが明るくなったというのである。吊ったままの簾も、この様子だと今日にでもしまわれることだろう。と、ただそれだけのことを詠んでいるのだが、こういう句には文句無しに唸らされてしまう。詠まれているのは、日常的な些事には違いない。だが、その些事をこのようにさりげなく詠むには、虚子直門の作者には失礼な言い方になるけれど、相当な年月をかけた修練が必要だ。たとえば修練を積んだ剣士かどうかがさりげない立ち姿でわかるように、掲句もまた、さりげなくも腰がぴしりと決まっているのがわかる。『深見けん二句集』(1993)所収。(清水哲男)


August 2082003

 秋が来る美しいノートなどそろえる

                           阪口涯子

子(がいし・1901-1989)にしては、珍しく平明な句だ。代表作に「北風列車その乗客の烏とぼく」「凍空に太陽三個死は一個」などがあり、なかには「門松の青さの兵のズボンの折り目の垂直線の哀しみ」のような短歌ほどの長さの作品も書いた。観念的に過ぎると批判されることもあったと聞くが、とにかくハイクハイクした俳句を拒否しつづけた俳人である。その拒否の刃はみずからの俳句作法にも向けられており、自己模倣に陥ることにも非常な警戒感を抱いていて、常に脱皮を心掛けていた。揚句は、そんな脱皮の過程で生まれているという観点に立って見ると、非常に興味深い。いろいろと模索をつづけているうちに、ふっと浮かんだ小学生にでもわかるような句だ。口語俳句の一人者だった吉岡禅寺洞門から出発した人だから、初学のころならば、このような句は苦もなくできただろう。しかし、この句が数々の試行錯誤の果てに出現していることに、ささやかな詩の書き手である私としても、大いに共感できる。しかも、この句は作者のたどりついた何らかの境地を示しているのでもない。詩(俳句)に境地なんか必要ない、常に新しく生まれ変わる自己を示すことが詩を書くことの意義なのだとばかりに、彼の句はついにどんな境地にも到達することはなかった。そのために必要としたのは、したがってせいぜいが「美しいノートなど」だけだったのである。八十六歳の涯子は語っている。「僕は新興俳句の次をやりたかったんですが、それは、ゴビの砂漠で相撲を取るようなものです。ゴビの砂漠には土俵が無い。土俵が無い場に立ってみたんです」(西日本地区現代俳句協会会報・1988年11月号)。(清水哲男)


August 1982003

 炎昼の血砂を吐けり落馬騎手

                           山本光篁子

語は「炎昼(えんちゅう)」で夏。燃えるように暑い真夏の競馬場で、落馬した騎手が地面に叩きつけられた瞬間を押さえた句だ。「血砂」は「けっさ」と発音するのだろう。騎手が吐いたのはむろん「血」であるが、それが地面の「砂」にぱっとかかった様子を描写するのに、作者はあえて「血砂」という造語をもってした。あたかも騎手が「血」と「砂」を同時に吐いたかのようだが、それがこの句の情景をかえって鮮明にしている。飛び散った「血」と「砂」に、瞬間的にピントを正確に合わせた写真のように、落馬の情景は読者の網膜にくっきりと焼き付けられるのだ。そして、このときに現場では起きたであろう観客のどよめきも、委細構わずに走り去っていく他の馬群のとどろきも、句からは何も聞こえてこない。奇妙なほどに、あたりはしいんとしている。ただあるのは、既にしてどす黒くも鮮かな「血砂」に倒れ込んだ騎手の無音のストップモーションだ。状況は違うけれど、読んだ途端に私は、スペイン戦線で被弾した瞬間の兵士を撮ったロバート・キャパの写真に共通するものを感じたのだった。すなわち、非情の世界にはいつだって音などは無いものなのだと……。いずれにしても、このシャッターチャンスを逃さなかった作者の眼力が素晴らしい。競馬に取材した句は数あれど、なかでも出色の一句と言ってよいだろう。俳誌「梟」(2003年8月号)所載。(清水哲男)




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