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August 2382003

 秋めくや一つ出てゐる貸ボート

                           高橋悦男

語は「秋めく」。このところの東京は残暑がぶりかえしてきて蒸し暑いが、日の光りはさすがにもう秋である。八月も終わりのころの、そんな日の暑い昼下りの情景だろう。夏の盛りには家族連れなどで大いににぎわった貸ボート場も、いまは閑散として、ただ一艘が出ているだけだ。この句が上手いなと思うのは、主観性の強い「秋めく」という表現に、眼前の一情景をそのまま写生することによって明晰な客観性を与えているところだ。間もなく秋の観光シーズンになれば、またこのボート場にも活気が戻ってくるのである。すなわち、夏の盛りと秋のそれとの中間の、それもほんの短い間の季節感をさらりと一筆書きに仕留めたような巧みさ。だから作者は、この情景が淋しいとか心に沁みるとかと言っているのではない。あえて言うならば、情景の客観写生が「秋めく」という主観的な言葉を引き出してくれたことで、作者は句になったと納得している。実作者の人ならば、このあたりの気持ちの良さは理解できるだろう。これまでに「秋めく」の句はたくさん作られてきたが、主観性のかちすぎた句が多い。といって、私には主観性を否定する気など毛頭ないのだけれど、しかし、このように客観が主観を引っ張り出す俳句の様式には、舌を巻かざるを得ないのである。地味な句ではある。が、俳句の様式に関心のある人には見過ごせない句だと思った。もう少し考えてみたい。『合本俳句歳時記』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


November 04112007

 林檎もぎ空にさざなみ立たせけり

                           村上喜代子

象そのものにではなく、対象が無くなった「跡」に視線を向けるという行為は、俳句では珍しくないようです。およそ観察の目は、あらゆる角度や局面に行き渡っているようです。句の意味は明解です。林檎をもぐために差し上げた腕の動きや、林檎が枝から離れてゆく動きの余波が、空の広がりに移って行くというものです。現実にはありえない情景ですが、空を水に置き換えたイメージはわかりやすく、美しく想像できます。似たような視点から詠まれた句に、「梨もいで青空ふやす顔の上」(高橋悦男)というのもあります。両句とも、本当にもいだのは果物ではなく、青空そのものであると言いたかったのでしょう。「地」と「絵」の組み合わせを、果物にしたり、空にしたり、水にしたりする遊びは、たしかに飽きることがありません。もぎ取った空に、大きく口をあけてかぶりつけば、そこには果肉に満ちた甘い水分が、今度は人に、さざなみを立てはじめるようです。『合本俳句歳時記第三版』(2004・角川書店)所載。(松下育男)




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