拙句集『打つや太鼓』の見本が出ました。日ごろ偉そうなこと言ってるわりには…。




2003ソスN8ソスソス24ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 2482003

 雀蛤と化して食はれけるかも

                           櫂未知子

つけたっ、珍季語句。このところいささか理屈っぽくなっていたので、理屈抜きで楽しめる句を探していたら、掲句にぶつかった。季語は「雀蛤と化す(なる)」で秋。もはやほとんどの歳時記から姿を消している季語であり、ついぞ実作を見かけたこともない。手元の辞書に、こうある。「雀海中(かいちゅう)[=海・大水(たいすい)・水]に入(い)って蛤(はまぐり)となる(「国語‐晋語九」による)。物がよく変化することのたとえ。古くから中国で信じられていた俗信で、雀が晩秋に海辺に群れて騒ぐところから、蛤になるものと考えたものという」。日常的にはあくまでも「たとえ」として諺的に使われてきた言葉なのだが、これを作者がいわば「実話」として扱ったところに、楽しさが出た。あたら蛤なんぞにならなければ、食われることもなかったろうに……。ほんとに、そうだなあ。たまには、こうやって俳句を遊んでみるのも精神衛生には良いですね。ちなみに、この季語で夏目漱石が「蛤とならざるをいたみ菊の露」と詠んでいる。ついに蛤になるに至らず死んだ雀を悼んだ句だ。死骸を白菊の根元に埋めてやったという。しかし、これも「たとえ」ではなく「実話」としての扱いである。現代俳人では、たとえば加藤静夫に「木登りの木も減り雀蛤に」があるが、これまた「木」と「雀」がイメージ的に結びついていることから、どちらかと言うとやはり「実話」色が濃い。どなたか、諺的な「たとえ」の意味でチャレンジしてみてください。『蒙古斑』(2000)所収。(清水哲男)


August 2382003

 秋めくや一つ出てゐる貸ボート

                           高橋悦男

語は「秋めく」。このところの東京は残暑がぶりかえしてきて蒸し暑いが、日の光りはさすがにもう秋である。八月も終わりのころの、そんな日の暑い昼下りの情景だろう。夏の盛りには家族連れなどで大いににぎわった貸ボート場も、いまは閑散として、ただ一艘が出ているだけだ。この句が上手いなと思うのは、主観性の強い「秋めく」という表現に、眼前の一情景をそのまま写生することによって明晰な客観性を与えているところだ。間もなく秋の観光シーズンになれば、またこのボート場にも活気が戻ってくるのである。すなわち、夏の盛りと秋のそれとの中間の、それもほんの短い間の季節感をさらりと一筆書きに仕留めたような巧みさ。だから作者は、この情景が淋しいとか心に沁みるとかと言っているのではない。あえて言うならば、情景の客観写生が「秋めく」という主観的な言葉を引き出してくれたことで、作者は句になったと納得している。実作者の人ならば、このあたりの気持ちの良さは理解できるだろう。これまでに「秋めく」の句はたくさん作られてきたが、主観性のかちすぎた句が多い。といって、私には主観性を否定する気など毛頭ないのだけれど、しかし、このように客観が主観を引っ張り出す俳句の様式には、舌を巻かざるを得ないのである。地味な句ではある。が、俳句の様式に関心のある人には見過ごせない句だと思った。もう少し考えてみたい。『合本俳句歳時記』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


August 2282003

 樹々の青重ねて秋もはじめなり

                           鞠絵由布子

の六月に余白句会50回記念パーティが開かれ、そのときのことを詩人の財部鳥子が「詩人の俳句」と題して書いている(「俳句研究」2003年9月号)。最初に参加者による大句会が行われたのだが、会場の様子はこうだった。「俳句が読み上げられると作者の名前が明かされる。その前にみんなの下馬評、『これは詩人の俳句だな』『どうも詩人くさいな』笑いも混じる。下手の横好きという含みか。しかし案外に当たるのだった」。財部さんによれば、当たるのは詩人の俳句には「言葉の並びに自由と無理が入り込む」からなのである。私も、常々そう思ってきた。図星である。だから、たとえば掲句を詩人の俳句と感じる人は皆無だろう。どこから見ても、俳人の作品だ。夏から秋へとさしかかる季節感を、まだ青い樹々の葉の重なり具合を通して微妙に見出している。よくよく見ると盛夏の青ではなく、かといって紅葉しはじめている色でもない。その微妙な色彩をとらえて、すなわち「秋のはじめなり」と断定したところに俳句的な手柄がある。これが詩人だと、たとえ微妙な変化に気づいたとしても、こうは詠まない。いや、詠めない。掲句のように書くことに、どうしても不安感を抱いてしまうからだ。このままではどこか頼りなく、もう一押し念を入れたくなる。でも、もう一押しすると、たぶん樹々の青の微妙な色合いはどこかに押し込められてしまい、掲句の清新な感覚は衰えてしまうだろう。というようなことは、むろん詩人にだってわかっているのだ。わかっちゃいるけど止まらないのである。大雑把に言えば、詩は説得し俳句は説得しない。この差は大きい。それにしても上手な句です。脱帽です。『白い時間』(2003)所収。(清水哲男)




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