浅草サンバ見物へ。が、目の調子が悪い。本日のテーマは階段を踏み外さないこと。




2003ソスN8ソスソス30ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 3082003

 帰郷われに拳をあづけ芋掘る父

                           栗林千津

語は「芋」で秋。俳句では馬鈴薯や甘藷ではなく、里芋のことを言う。句の眼目は「拳あづけて」にあり、実際に拳をあずけて(手をつないで)芋を掘れるわけはないから、「拳」は比喩だ。子供のころにいたずらをしたときなど、すぐに飛んできた父の拳骨。本当に恐かった拳骨。いまにして思えば、それは父の若さの象徴であり、一家を支える活力の源のようなものであった。その若かったときの力をいま、老いた父は作者にあずけるようにして、うずくまり黙々と芋を掘っている。たぶん夕食にでも、娘に食べさせるためなのだろう。久しぶりに帰郷してなんとなく若やいだ気分になっていた作者は、そんな父の姿を認めることで、経てきた歳月の長さを思い知らされているのだ。情け容赦なく、現実の時間は過ぎてゆく……。同じ作者の同じ句集に「鬼やんま父の脾腹を食はんとす」もある。まことに「鬼やんま」は、人に突っかかるように凄いスピードで飛んでくる。父をめがけるようにして飛んできた瞬間に、作者は「あっ、食われる」と直感的に反応したのだった。「脾腹(ひばら)」はわき腹のこと。わき腹が無防備に見えるということもまた、その人の老いをよく示しているだろう。若ければ、わき腹など造作なくガードできるからだ。この句は鬼やんまの獰猛とも言える生態を借りながら、実は老いたる父の弱ってきた様子を一えぐりに提出している。『湖心』(1993)所収。(清水哲男)


August 2982003

 新豆腐切る朝風も揃えて切る

                           村上友子

語は「新豆腐」。新しく収穫した大豆でつくった豆腐のことで、秋季。朝食の仕度を詠んだのかもしれないが、「切る」を強調しているところからすると、豆腐屋の仕事風景と読むほうがしっくりくる。学生時代の宇治の下宿の真向かいに、小さな豆腐屋があった。早朝から店内には湯気が濛々と立ちこめ、夏場は表戸を外して仕事をしていたが、そんなことではほとんど涼しくはなかったろう。大変な仕事だと思っていた。だから、やがて秋風が立ち初めると、少しは人心地がついたのではあるまいか。いつでも商品の豆腐はきれいに切らなければならないが、ようやく涼しい朝風が吹いてきて気分も楽になったので、今朝の豆腐はとくに念入りに切り揃えたと言うのだろう。おまけに、新豆腐だ。朝の風もいっしょに切り揃えるという措辞が、いかにも爽やかに響く。このときの豆腐は、絹ごしよりも固めの木綿豆腐のほうが望ましい。固めだと角もすっきり仕上がるので、それだけ涼味が感じられるからだ。ところで、固めの豆腐といえば佐世保港外の黒島の豆腐が有名だ。最近、その製法をNHKテレビで観た。大豆を手回しの石臼で引いて豆乳を作り、普通ならば煮立てるときにニガリを入れるわけだが、黒島では代わりに海水を加えていた。したがって、出来上がりの味はやや塩辛い。そうして製した豆腐は、映像で見るだけでも、はっきりと固いとわかる。島では正月や祝い事の煮しめに使うそうだから、ちょっとやそっとでは煮崩れたりしないのだ。機会があれば、固め豆腐ファンとしては食べてみたいと思った。『新版・俳句歳時記』(雄山閣出版・2001)所載。(清水哲男)


August 2882003

 鎌倉の月高まりぬいざさらば

                           阿波野青畝

語は「月」で秋。青畝(せいほ)は生涯関西に住んだ人だから、鎌倉に遊んだときの句だろう。鎌倉には師の虚子がおり、青畝は高弟であった。素十、誓子、秋桜子とともに「ホトトギスの4s」と称揚された時代もある。句はおそらく高齢の虚子との惜別の情やみがたく、別れの前夜に詠まれたものだと思う。折しも盆のような大きな月が鎌倉の空に上ってきて、見上げているうちに去りがたい思いはいよいよ募ってくるのだが、しかしどうしても明日は帰らなければならない。気持ちを取り直して「いざさらば」と言い切った心情が、切なくも美しい。なんだかまるで恋の句のようだけれど、男同士の師弟関係でも、こういう気持ちは起きる。たとえば瀧春一に、ずばり「かなかなや師弟の道も恋に似る」があって、師は秋桜子を指している。なお、掲句を収めた句集は虚子の没後に出されているが、追悼句ではない。以下余談だが、この句を歴史物と読んでも面白い。鎌倉といえば幕府を開いた頼朝が想起され、頼朝といえば義経だ。平家追討に数々の武勲をたてた義経が、勇躍鎌倉に入ろうとして指呼の間とも言える腰越で足止めをくった話は有名である。一月ほど腰越にとどまった義経だったが、頼朝の不信感を拭うにはいたらず、ついに京に引き上げざるを得なかった。この間に大江広元に宛てたとされる書状「義経腰越状」に曰く。「義経犯す無くして咎を蒙る。功有りて誤無しと雖も、御勘気を蒙るの間、空しく紅涙に沈む。(中略)骨肉同胞の儀既に空しきに似たり」。そこで義経になり代わっての一句というわけだが、どう考えても青畝の句柄には合わない。『紅葉の賀』(1962)所収。(清水哲男)




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