September 012003
鼻を流れる目薬九月のひかる船出
蔦 悦子
このところ目の調子がよくないので、この句が目についた。「鼻を流れる目薬」は目薬をさしそこなったのではなく、一滴か二滴多めにさしたので、目を閉じたときに少し溢れて鼻梁を伝って流れている状態を言っている。そのひんやりした感触と再び目を開けたときに見える「ひかり」との取り合わせに、作者は「九月」を感じたのだ。よく晴れた朝だろう。目薬をさし終えた直後に見えるのは、眼前の具体物ではなく、目の中の目薬に乱反射する「ひかり」である。その束の間の「ひかり」の戯れをさざ波のようだとイメージし、鼻を伝い落ちる雫の清涼感と合わせて、「九月のひかる船出」と見立てたわけだ。「鼻を流れる目薬」に着目したところが、数多い目薬の句のなかでも異彩を放っている。ご覧のように、掲句は五七五で詠まれていない。いわゆる字余りと字足らずが混在したかたちだ。私の読み方だと十一・四・六となり、破調もいいところである。ここまで来ると、定型に愛着のある人は眉をひそめるだろう。同じようなイメージなら、五七五に収められるのにと思うかもしれない。私も、上手な詠み手ならば可能だろうとは思う。だが、作者はあえてそれをしなかった。理由は、おそらく「九月」のはじまりころの季節感の中途半端性にあると見たい。まったき秋でもなく、残暑が厳しい日中でも夏というにははばかられる。そんなぎくしゃくがたぴしした季節の「船出」なのだ。定型のなめらかな口調では、そのリアリティは伝えられないのではなかろうか。ただし、このような音数律の使用は、べつに珍しくはないことを付記しておく。ある種の傾向の俳句にとっては、ほとんど定型と言ってもよい書き方だ。これについては、いつか触れる機会もあるだろう。金子兜太編『現代俳句歳時記』(1989)所載。(清水哲男)
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