September 032003
いなびかり生涯峡を出ず住むか
馬場移公子
季語は「いなびかり(稲光・稲妻)」で秋。何度か書いたと思うが、雨の中でゴロゴロピカッとくる雷鳴に伴う光りとは違う。誤用する人が多いけれど、「いなびかり」は遠くの夜空に走る雷光のことで、音もしないし雨も伴わない。晴れた夜の彼方の空が突然に光るので、不思議な感興を覚える。おそらく、作者三十代の句だ。二十二歳で結婚。わずか四年後の二十六歳のときに夫が戦死し、秩父の生家に戻って養蚕業を継いだ。一日の労働が終わってほっとしたところで、秩父の山の彼方に走る雷光を認めたときの感慨である。ときは敗戦後も間もなくのころだから、秩父辺りだと、東京などの都会に出ていく友人知己も少なくなかっただろう。しかし、私は残る。残らざるを得ない。「生涯」をこの山の中で暮らすことになるだろうと、まだ若い未亡人が我と我が身に言い聞かせているところが、健気であり美しい。そして句のとおりに、移公子(いくこ)は生涯を秩父の山中で過ごしたのだったが、自然の中の生活に取材した佳句を数多く残している。また、時代の変遷も自然の中に曖昧に溶かし込まずに、それはそれできちんと詠み込んである句も多いので好感が持てる。揚句と同じ句集に収められた作品では、「亡き兵の妻の名負ふも雁の頃」、「曼珠沙華いづこを行くも農婦の日」「日雇ひと共に言荒れ養蚕季」など。山国の中での少年時代、私は絶対にこんなところに残るものかと思い決めていただけに、こうした句には弱い。ただただ賛嘆するばかりである。『峡の音』(1958)所収。(清水哲男)
March 242004
梅散るやありあり遠き戦死報
馬場移公子
前書に「亡夫、三十三回忌」とある。作者は結婚四年目にして夫を失い、養蚕業の旧家を守って生涯を秩父山峡の生家に過ごした。こうした履歴は知らなくても、句は十分に鑑賞に耐え得るだろう。なによりも「ありあり遠き」の措辞が胸を打つ。「戦死」の報せが届いた日のことは、いつだってつい最近のことのように思えていたのが、こうして「三十三回忌」の法要を営むことになり、夫の死がもはやはるかな昔のことになったと思い知らされたのだ。認めたくはないが、これが容赦ない時の流れというものである。この現実にいまさらのように、あらためて「ありあり遠き」と噛み締める作者の孤独感は、いかばかりだったろうか。夫亡き後も、毎春同じ姿で咲いては散ってきた山里の梅の花が、今年はことのほか目にしみる。日本では武士や戦士の死を桜花の散り際に例えてきた伝統があるけれど、残された者にとってはとてもそのようには思えない。例えるならば、むしろ人知れずひっそりと散ってゆく梅花のほうにこそ心は傾くだろう。その意味からも掲句の取り合わせは、読者の心にしみ込むような哀感を醸成している。古い数字だが、1949年の厚生省調査によると、大戦による全国の未亡人数は187万7161人、そのうち子の無いもの31万9402人、有子未亡人で扶養義務者の無いもの29万6105人。生活保護該当者22万7756人。無職者44万6545人。未亡人会数2065となっている。現在ご存命でも80代、90代という年代が大半で、187万余の半数以上の方々は既に鬼籍に入られたことだろう。この数字ひとつを見ても、なお戦争を肯定できる人が何処にいるだろうか。『峡の音』(1958)所収(清水哲男)
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