September 052003
定席は釣瓶落しの窓辺かな
西尾憲司
季語は「釣瓶落し(つるべおとし)」で秋。秋の日は井戸の中にまっすぐに落ちていく釣瓶のように、暮れるのが早い。行きつけの喫茶店か、あるいは飲み屋だろうか。いつも座る席は決まっている。その窓辺から春夏秋冬の季節のうつろいを見ているのだが、このときにはまさに釣瓶落しといった感じで、暮れていった。日中の暑さは厳しくても、季節はもうすっかり秋なのだ。そう納得したのと同時に、作者の胸をちらっとよぎったのは、おそらくはこれからの自分の人生に残された時間のことだろう。若いうちならば思いも及ばないけれど、ある程度の年齢になってくると、何かのきっかけで余命などということを思ってしまう。まさかまだ釣瓶落しとは思いたくはないが、かといって有り余るほどの時間が残されているわけでもない。と、深刻に思ったのではなく、あくまでもちらっとだ。そんなちらっとした哀感が読者の胸をもかすめる仕立てが、いかにも俳句的である。上手な句だ。「定席」といえば、私もわりに窓辺の席を好むほうだ。窓辺がなければ、隅っこの席。電車だと、できるだけ後方の車両に乗る癖がある。学生時代に、友人からそういう人間は引っ込み思案だと聞かされて、なるほどと思った。だったら、今後は意識的に真ん中や前方を目指すことで、いつかは外向的な性格に転じるはずだと馬鹿なことを考えた。が、かなり頑張ってはみたものの、効果はちっとも表われないのであった。いつの間にか、また隅へ後へと戻ってしまい、今日に至る。『磊々』(2002)所収。(清水哲男)
January 122004
隠し持つ狂気三分や霜の朝
西尾憲司
たとえば雪が人の心を包み込み埋め込むのだとすれば、「霜」は逆だろう。神経を逆撫でするするようなところがあり、人を身構えさせる。作者が「狂気三分」を覚えたのも、心でキッと身構えたからにちがいない。出勤の朝だろうか。いや休日であろうとも、おのれの狂気を「隠し持つ」一日がまたはじまったわけである。このときに「狂気」とは、世の中の仕組みとはとうてい折り合わないけれど、しかし自分にとってはしごく自然な心のありようのことだろう。人はひとりでは生きられないから、誰もが折り合いをつけるために、折り合いのつかない部分を抑えながら生きていく。ワッと叫びたいけど、叫べない。いっそ一思いに叫んだら、どうなるのか。その答えを知っている心がなお自分を押さえつけ、その自己抑圧はおそらく生涯つづいてゆくような気がする。昨日から、谷崎潤一郎が七十七歳のときに書いた『瘋癲老人日記』を読みはじめた。日記という形式だから、ことさらに狂気を隠す必要はないわけで、そこが面白い。テーマを単純化してしまうと、かつての名作『春琴抄』の佐助の狂気を、現実の老人の日常に置き換える試みのようだ。主人公は老人という弱者の立場を逆に利用して、ずる賢くも狂気の現実化を少しずつ計ろうとするのだが、たとえ家族同士の狭いつきあいでも、やはり世の中であることには変わりない。簡単には、事は進まない。掲句の作者の心情は多くに共通するそれだろうから、そんな読者像を熟知していた老いたる谷崎は、ついに人の心は解放されっこないぜと、この世の中に捨て台詞を残したかったかのようである。『磊々』(2002)所収。(清水哲男)
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