阪神対ダイエー(旧南海)となれば東京五輪の年のシリーズと同カードだ。私も古い。




2003ソスN9ソスソス6ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 0692003

 はるばると糸瓜の水を提げてきし

                           星野恒彦

語は「糸瓜(へちま)」で秋。前書きに「岳父信州より上京」とある。三十年ほど前の句だから、当時の信州から東京までは「はるばると」が実感だったろう。そんな遠くから、岳父(義父)が「糸瓜の水」を提げてやってきた。娘、すなわち作者の妻へのお土産だ。自宅で採水したものを一升瓶に詰めてある。そのころの化粧水事情は知らないが、たぶんこうした天然物の人気は薄かったのではあるまいか。そんな事情にうとい父親が、壊れやすくて重いのに、はるばると大事に抱えて持って来た親心。もらった側では、その物にさして有り難みを感じなくても、その心情には頭が下がる。句は言外に、そういうことを言っているのだと読んだ。いつか書いたような気もするけれど、一つ思い出した話がある。こちらは四十年ほど前のこと。東京で暮らす友人のところに、叔父から電話がかかってきた。東京駅にいるのだが、もう動けないので迎えに来てくれと言う。山陰に住んでいる叔父で、農協か何かの旅行で北海道に出かけたことは知っていた。うだるような暑い日だったから、てっきり急病で下車したのかとタクシーで駆けつけてみたら、ホームで真っ赤な顔をした叔父が、大きな荷物に腰掛けて心細そうに団扇でぱたぱたやっている。どうしたのかと尋ねると、破顔一笑、立ち上がった叔父が腰掛けていた荷物を指して曰く。「お前にな、どうしても本場のビールをのませてやりたくて」。見ると、その箱には大きく「サッポロビール」と書いてあった。むろん、そこらへんの酒店で売られているものと同じだった。ちょっといい話でしょ。『連凧』(1986)所収。(清水哲男)


September 0592003

 定席は釣瓶落しの窓辺かな

                           西尾憲司

語は「釣瓶落し(つるべおとし)」で秋。秋の日は井戸の中にまっすぐに落ちていく釣瓶のように、暮れるのが早い。行きつけの喫茶店か、あるいは飲み屋だろうか。いつも座る席は決まっている。その窓辺から春夏秋冬の季節のうつろいを見ているのだが、このときにはまさに釣瓶落しといった感じで、暮れていった。日中の暑さは厳しくても、季節はもうすっかり秋なのだ。そう納得したのと同時に、作者の胸をちらっとよぎったのは、おそらくはこれからの自分の人生に残された時間のことだろう。若いうちならば思いも及ばないけれど、ある程度の年齢になってくると、何かのきっかけで余命などということを思ってしまう。まさかまだ釣瓶落しとは思いたくはないが、かといって有り余るほどの時間が残されているわけでもない。と、深刻に思ったのではなく、あくまでもちらっとだ。そんなちらっとした哀感が読者の胸をもかすめる仕立てが、いかにも俳句的である。上手な句だ。「定席」といえば、私もわりに窓辺の席を好むほうだ。窓辺がなければ、隅っこの席。電車だと、できるだけ後方の車両に乗る癖がある。学生時代に、友人からそういう人間は引っ込み思案だと聞かされて、なるほどと思った。だったら、今後は意識的に真ん中や前方を目指すことで、いつかは外向的な性格に転じるはずだと馬鹿なことを考えた。が、かなり頑張ってはみたものの、効果はちっとも表われないのであった。いつの間にか、また隅へ後へと戻ってしまい、今日に至る。『磊々』(2002)所収。(清水哲男)


September 0492003

 新涼や二人で川の石に乗り

                           寺田良治

語は「新涼」で秋。句の情景は、川遊びというほどのことではない。山峡などの川辺を歩いていて、ふっと川面からごつごつと露出している「石」に乗ってみただけのことだ。何が「二人」をしてそんな他愛無い行為に走らせたのかと言えば、むろん「新涼」である。夫婦か、恋人同士か、あるいは同性の二人連れだってかまわないのだが、とにかく二人ともどもに稚気溢れる行動に移りたくなるほど、気持ちの良い涼しさに恵まれたということだ。写真で言えば、記念写真ではなくスナップ写真。シャッター・チャンスが巧いので、なんでもないような情景ながら、構えた記念写真などよりもずっと新鮮な印象を与えつづけるだろう。こういう写真を撮れる人、いや、句を作れる人は、とても言語的な運動神経が良い人なのだと思う。上手なカメラマンがそうであるように、被写体の魅力を引き出すコツを心得ている。まずもって、被写体(相手)にある種の先入観を抱いて向き合うようなことはしない。また、相手の意識のうちで、その行為に意味があろうがなかろうが、そんなことにも関心を持たない。待っている瞬間は、ただ一点。すなわち、相手が我を忘れる一瞬だ。そして、この忘我の一瞬は、どんなに意識的な行為の過程にも訪れる。それがたとえ、気取りという極めて意識的な行為の最中にでも、気取りの意識が高揚してくると否応なく露出してくる状態である。そこを逃さずに、パッと切り取る。そして切り取るときには、こちらも忘我。ここが肝心。揚句は、まさにそのようにして切り取られた作品と読める。『ぷらんくとん』(2001)所収。(清水哲男)




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