セ最優秀選手に矢野の呼び声が高い。私は金本だ。ねばりのバックボーンは彼にあった。




2003ソスN9ソスソス11ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 1192003

 陸稲消え六〇万市さがみはら

                           小川水草

語は「陸稲(おかぼ)」で秋。畑で作る稲のこと。作者の略歴に「JA全農などで営農関係の研究普及に従事」とある。戦後の工業化、ベッドタウン化で急速に人口の膨れ上がった地域は多いが、句の「さがみはら(神奈川県相模原市)」もその一つだ。人口十万人を越えたのは1960年であり、掲句が詠まれたのが2000年だから、人口爆発地域と言っても過言ではないだろう。昔は農業以外に見るべき産業もなく、しかも水の便が悪い土地なので草地に開いた畑を活用する他はなく、したがって米作も水稲ではなく陸稲だったというわけだ。私の山口県の田舎では陸稲は珍しかったのだが、藷や大豆などと輪作ができるので、ある意味では効率のよい作物だなあとは感じていた。しかし、最大の欠点は耐干性に極めて弱いことだ。丈夫に育つかどうかは雨まかせみたいなところがあり、毎年、旱魃の危機に見舞われながらの栽培は、精神的にもとても大変だったと思う。そんな危なっかしい陸稲だが、自給自足の農家では作るのを止めるわけにはいかない。しかし、その後地域の都市化が進むなかで農家にも現金収入への道が開かれ、それにつれて陸稲栽培はどんどん姿を消していった。そして、ついに掲句の状況へと至り、気がつけば地域は「六〇万市」に膨れ上がっている。句の鑑賞で留意すべきは、作者が決して大都市化に皮肉を投げているのではないという点だ。むしろ、短期間でのあまりの土地の変わりように呆然としている図なのである。ここには感傷もなければ、怒りもない。「さがみはら」と故意に平仮名表記をすることで、かつての「相模原」とは似ても似つかぬ現況を正確に表現したかったのだ。今宵は名月。相模原台地にも、昔と変わらぬ月が上る。『畦もぐら---いま農の周辺』(2003)所収。(清水哲男)


September 1092003

 ふる里は波に打たるゝ月夜かな

                           吉田一穂

が高校生のときだったと思うが、国語の教科書に一穂の「白鳥」が載っていてびっくりした覚えがある。この難解な詩を、どんなふうに教師は教えたのだろうか。私が教師だったら、生徒には素直に「わかりませぬ」と謝るしかない。一穂の難解さは、徹底して日常的な描写を拒否したところにあった。元来、日本語は感覚的情緒的であり、現実を取捨選択して切り抜くのではなく、現実の流れをなぞって行くのに適している。すなわち描写を得意とするわけだが、ならば芸術までがわざわざ「ナメクジ語」(一穂)を使うことはない。あえてそのようにメロディアスな日本語の特性にさからい、言語的な抽象性を目指すときに、はじめて日本語表現は芸術として自立できるのだ。と、これは私なりの雑駁な理解でしかないけれど、揚句にもむろんこうした詩人の方法論が生かされていると読むべきだろう。詩人は芭蕉を敬愛し、「スケッチ文学」の蕪村を嫌った。安易な描写による抒情性を否定した。だが皮肉なことに、この句には彼が蛇蝎の如く嫌った情緒が纏綿といった感じで滲んで見えている。私の考えでは、この句には方法論的に芭蕉の「荒海や佐渡によこたふ天河」が下敷きにあると思う。「荒海」に対するに「ふる里」、「よこたふ」に「打たるゝ」、そして「天河」に「月夜」。いまある自分の位置からのまなざしや思いの方向が、完全に同一だ。にもかかわらず、一穂句が情緒的に流れて見えるのは何故だろうか。それはおそらく詩人自身がどう反抒情的に句を律したつもりでも、「ふる里」や「月夜」の語彙が既にしてあまりにも抒情の甘さにまみれているからに他ならないだろう。絶対に言えることは、詩人がこの句に託した屹立したイメージは、ほとんど読者には伝わらないのである。いたましきかな。詩集『稗子傅』(1935)所収。(清水哲男)


September 0992003

 村からす戻り果てや秋の空

                           神崎与五郎

戸期の句。我が家の近くにある井の頭公園は、「からす」のねぐらになっている。昼間は大方がどこかに餌を取りに出かけてしまうが、夕刻ともなると三々五々といった感じで戻ってくる。その数、およそ三千羽。想像するだに、物凄い数だ。夜間は人が立ち入らないので、さぞや安心してゆっくりと眠れることだろう。句の「村からす」も同様に、夕焼け空を戻ってくるわけだ。「戻り果(はて)てや」は、すっかり全部が戻ってきたよという意味だろう。他方では農作業を終えた人間たちもそれぞれのねぐらに「戻り果て」、すべて世は事もなし。今日も一日平穏無事であったことへの感懐が、暮れなずむ「秋の空」に滲んでいる。「秋の空」の季語を、黄昏時に設定した句は珍しいと言ってよいのではあるまいか。ところで、作者は赤穂浪士討ち入り組の一人として知られる。主君亡き後に変名を使って江戸に店を出し、吉良邸裏門から屋敷の様子を探りつづけた。俳誌「耕」(主宰・加藤耕子)に浪士たちの俳句や和歌を連載で紹介している木内美恵子さんによれば、与五郎は美作の出身で赤穂藩俳壇三羽烏と言われた。俳号は竹平。そして、この句は大高源五(俳号・子葉)の編んだ『二つの竹』に載せられた作品だという。したがって、句は平穏だった赤穂時代の村里の様子を詠んだものということになる。三百年も昔の静かな赤穂の夕暮れだ。ちなみに、同じく木内さんの紹介による与五郎の辞世のうたは次のようであった。「人の世に道しわかずば遅くとて消ゆる雪にもふみまがふべき」。このとき、与五郎春秋三十九歳。(清水哲男)




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