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2003ソスN9ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 1592003

 月光写真まずたましいの感光せり

                           折笠美秋

季句としてもよいのだが、便宜上「月」を季語と解し秋の部に分類しておく。「月光写真」は、昔の子供が遊んだ「日光写真」からの連想だ。日光写真は、最近の歳時記の項目からは抹消されているが、古くは「青写真」と呼び、白黒で風景やマンガが描かれた透過紙に印画紙を重ね、日光に当てて感光させた。こちらは、冬の季語。戦後の少年誌の付録によくついてきたので、私の世代くらいだと、たいていは遊んだことがあるはずだ。「墓の上にもたしかけあり青写真」(高浜虚子)。作者は同じような仕組みの月光写真というものがあったとしたら、きっとまず感光したのは「たましい」であったに違いないと想像している。いや、それしかないと断定している。まったき幻想を詠んでいるにもかかららず、ちっとも絵空事に感じさせないところが凄い。日光に比べればあるかなきかの淡い光ゆえ、逆に人の目には見えないものを映し出す。それしかあるまいとする作者の説得に、読者は否応なくドキリとさせられてしまう。おそらくは日頃月の光に感じている何らかの神秘性が、「たましい」を映し出したとしても不思議ではないという方向に働くからだろう。そしてすぐその次に、読者の意識は、仮に自分の「たましい」が感光するとしたら……どんなふうに映るのだろうかと、動いていく。私などとは違って、よほど心の清らかな人でない限りは、想像するだに恐ろしいことだろう。ずいぶん昔にはじめて読んだときには、怖くてうなされるような気持ちになったことを思い出す。『虎嘯記』所収。(清水哲男)


September 1492003

 老いよとや赤き林檎を手に享くる

                           橋本多佳子

語は「林檎」で秋。作者、五十歳ころの句と思われる。身体的にか精神的にか、いずれにしても老いの兆しを自覚する年頃だ。句はそうした自覚を跳ね返すように、まだまだ頑張る、頑張れる、ナニクソという気概を詠んでいる。林檎を享(う)けたシチュエーションは、よくわからない。でも、作者が林檎を手渡されたときに、何かを感じたことだけはわかる。この句の鑑賞の要諦は、この「何か」をどう想像するかにあるだろう。私の読みは、こうだ。誰が手渡したのかもわからないが、作者が「何か」を感じたのは、その手渡し方にあったのだと思う。おそらく、周辺には作者よりも若い人たちがいた。このときに、自分に手渡してくれた人の手つきが、なんとなく若い人へのそれとは違っているように感じられたのである。たとえば他の人へよりより丁寧に、あるいは少し会釈をするような仕草で……。ほんの一瞬の微妙な行為でしかないのだけれど、作者はそこに敏感に、ある種の特別扱いを感じてしまった。平たく言えば、老人扱いされたと受け取ったのだ。老いの兆しを自覚している者の過敏な反応かもしれないが、感じたものは感じたのだから「老いよとや」とすかさず反発した。「林檎」の赤は、盛りの色である。この「赤き林檎」のように、私はこれからも人の盛りの生をを生きつづけていく。いってやる。負けてなるものかと、周囲にはさりげないふうを装いながらも、作者の心願は掌の林檎をはったと睨んでいる。美貌で気が強かったと伝えられる多佳子の面目躍如たる句と言うべきか。明日は「敬老の日」。『紅絲』(1951)所収。(清水哲男)


September 1392003

 わが嫁が鬘買ひたり秋暑し

                           車谷長吉

療用の鬘(かつら)ではなく、ファッションのためのそれだろう。ひところ若い女性の間でかなり流行したことがあって、見せてもらったことがあるが、地毛と区別がつかないくらいによくできていて感心した。ただ当然のことながら、頭をぴったりと覆う帽子のようなものだから、暑い時期には向きそうにない。かぶるには、かなりの忍耐を必要としそうだ。そんな鬘を妻が買ってきた。それでなくとも暑くてたまらないのに、なんという暑苦しいものをと、作者は内心でつぶやいている。苦り切っているのではなく、むしろ残暑厳しき時期に暑苦しい買い物ができる妻の発想に少し驚いていると読める。小説家(というよりも「文士」と呼ぶほうが適切かな)である作者は、いつも俳句を一編の小説のように作るのだという。なるほど、掲句もここからいろいろなストーリーが展開していきそうだ。作者の頭の中では、すでにこの鬘の運命が決まっているのだろう。そう思うと、愉快だ。ところで「わが嫁」はむろん妻のことだけれど、仮に「わが」と限定しないとすれば、地方によって受け取り方が違ってくる。関東辺りで単に「嫁」と言えば妻ではなく息子の嫁の意味だが、私の育った山口県辺りでは配偶者のことを言う。「あまり飲んだら嫁に叱られる」などと、当時の友人たちは今でも使っている。作者の生まれた兵庫県でも、おそらく同じだと思う。だから「わが嫁」と限定して詠んでいるのは、五音に揃えるということよりも、誤解を招かないための配慮からだと言える。「嫁」が妻のことを言うに決まっている地方の読者には、「わが」の限定がいささかうるさく感じられるかもしれない。『車谷長吉句集』(2003)所収。(清水哲男)




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