祝・阪神。優勝したのは星野と野村前監督の力が半分ずつ。野村を忘れちゃいけません。




2003ソスN9ソスソス16ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 1692003

 鶏頭のどこ掴みても剪りがたし

                           河内静魚

語は「鶏頭(けいとう)」で秋。おおまかに分けると、鶏頭には二種類ある。命名の由来となった雄鶏のとさかのように茎の先端だけに広がって咲くタイプと、槍のように先端から下部にかけて花をつけるタイプと。句の鶏頭は、後者だろう。前者ならば他の花と変わらないので剪(き)りやすいが、槍状のものは、なるほど剪りにくい。どこで剪ってもバランスに欠けるような気がして、作者は困惑している。「どこ掴みても」に、困った感じがよく表われていて面白い。生け花の専門家なら別かもしれないが、共感する読者は多いだろう。では、なぜ困るのか。こういうときには誰しもが、ほとんど無意識的にもせよ、自分なりの美意識を働かせて花を剪ろうとするからである。とにかく適当に剪っておいてから、後で活けるときに調節すればよいなどとは思わないのだ。剪る現場で、おおむねデザインを完了させておこうとする。考えてみればなかなかに面白い心理状態だが、これはそもそも花を活けたいと思う発想に、既にデザイン志向があるからだろう。極論すれば、頭の中に室内でのデザインが浮かぶから活けたいと思うのだ。ところが、このデザインは、時に掲句のように現実と衝突してしまう。自分なりのデザインにしたがって花に近づいてみると、いまのいままでイメージしていた花が、実は似ても似つかぬ正体をあからさまにしてくる。掴んだまではよいのだが、その正体を知ってしまった以上は、急いで己のデザインを修正変更する必要がある。でも、どうやって……。作者は、ここのところを敏感に「掴んで」詠んだ句だ。単純そうでいて、そうではない句だ。『花鳥』(2002)所収。(清水哲男)


September 1592003

 月光写真まずたましいの感光せり

                           折笠美秋

季句としてもよいのだが、便宜上「月」を季語と解し秋の部に分類しておく。「月光写真」は、昔の子供が遊んだ「日光写真」からの連想だ。日光写真は、最近の歳時記の項目からは抹消されているが、古くは「青写真」と呼び、白黒で風景やマンガが描かれた透過紙に印画紙を重ね、日光に当てて感光させた。こちらは、冬の季語。戦後の少年誌の付録によくついてきたので、私の世代くらいだと、たいていは遊んだことがあるはずだ。「墓の上にもたしかけあり青写真」(高浜虚子)。作者は同じような仕組みの月光写真というものがあったとしたら、きっとまず感光したのは「たましい」であったに違いないと想像している。いや、それしかないと断定している。まったき幻想を詠んでいるにもかかららず、ちっとも絵空事に感じさせないところが凄い。日光に比べればあるかなきかの淡い光ゆえ、逆に人の目には見えないものを映し出す。それしかあるまいとする作者の説得に、読者は否応なくドキリとさせられてしまう。おそらくは日頃月の光に感じている何らかの神秘性が、「たましい」を映し出したとしても不思議ではないという方向に働くからだろう。そしてすぐその次に、読者の意識は、仮に自分の「たましい」が感光するとしたら……どんなふうに映るのだろうかと、動いていく。私などとは違って、よほど心の清らかな人でない限りは、想像するだに恐ろしいことだろう。ずいぶん昔にはじめて読んだときには、怖くてうなされるような気持ちになったことを思い出す。『虎嘯記』所収。(清水哲男)


September 1492003

 老いよとや赤き林檎を手に享くる

                           橋本多佳子

語は「林檎」で秋。作者、五十歳ころの句と思われる。身体的にか精神的にか、いずれにしても老いの兆しを自覚する年頃だ。句はそうした自覚を跳ね返すように、まだまだ頑張る、頑張れる、ナニクソという気概を詠んでいる。林檎を享(う)けたシチュエーションは、よくわからない。でも、作者が林檎を手渡されたときに、何かを感じたことだけはわかる。この句の鑑賞の要諦は、この「何か」をどう想像するかにあるだろう。私の読みは、こうだ。誰が手渡したのかもわからないが、作者が「何か」を感じたのは、その手渡し方にあったのだと思う。おそらく、周辺には作者よりも若い人たちがいた。このときに、自分に手渡してくれた人の手つきが、なんとなく若い人へのそれとは違っているように感じられたのである。たとえば他の人へよりより丁寧に、あるいは少し会釈をするような仕草で……。ほんの一瞬の微妙な行為でしかないのだけれど、作者はそこに敏感に、ある種の特別扱いを感じてしまった。平たく言えば、老人扱いされたと受け取ったのだ。老いの兆しを自覚している者の過敏な反応かもしれないが、感じたものは感じたのだから「老いよとや」とすかさず反発した。「林檎」の赤は、盛りの色である。この「赤き林檎」のように、私はこれからも人の盛りの生をを生きつづけていく。いってやる。負けてなるものかと、周囲にはさりげないふうを装いながらも、作者の心願は掌の林檎をはったと睨んでいる。美貌で気が強かったと伝えられる多佳子の面目躍如たる句と言うべきか。明日は「敬老の日」。『紅絲』(1951)所収。(清水哲男)




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