名古屋のビル爆発。言っても空しいが日本経済の脆い部分が裂けたのだ。やりきれない。




2003ソスN9ソスソス17ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 1792003

 台風去る花器にあふるる真水かな

                           大塚千光史

語は「台風」で秋。「花器(かき)」は、この場合には平たい水盤と読むのが適当だろう。台風が去ったとき、まず人が期待するのは乾燥である。通過中はあちこちが水浸しになり、その湿気たるやたまらない。風もたまらないけれど、去ってしまえば多少の吹き返しがあるにせよ、おさまるのは時間の問題だ。だが、湿気はそういうわけにはいかない。いつまでも、とくに日の当たらない家の中はじめじめとしている。そんな家の中では、むろんいつもと同じ生活がつづけられているわけで、床の間の花器もいつもと同じように水をいっぱいに張った姿で置かれている。単なる水ということで言えば、花器の水だって台風のもたらした水と何ら変わりはない。が、作者の目には、まったく異質の水と映っている。それが「真水(まみず)」という表現に凝縮した。じめついた部屋の中での水ならば鬱陶しく感じられて当たり前なのだが、この花器の水だけは鬱陶しさから外れている。むしろ清冽の気に「あふれ」ているようでサラサラしており、およそ湿気とは無縁のように見えているのだ。これぞ「真水」だ。そう見えるのは、水盤の純白のせいもあるだろう。活けられている花の姿にも関係しているだろう。しかし、そういうことを言わずに水一点に絞った表現で、作者は台風が去った後の生々しい気分を伝えている。水には水をもって物を言わしめた手柄、と言うべきか。台風一過の句には、戸外の様子を詠んだものが圧倒的に多い。なかで掲句は、その意味からも異色作と言うべきである。『木の上の凡人』(2002)所収。(清水哲男)


September 1692003

 鶏頭のどこ掴みても剪りがたし

                           河内静魚

語は「鶏頭(けいとう)」で秋。おおまかに分けると、鶏頭には二種類ある。命名の由来となった雄鶏のとさかのように茎の先端だけに広がって咲くタイプと、槍のように先端から下部にかけて花をつけるタイプと。句の鶏頭は、後者だろう。前者ならば他の花と変わらないので剪(き)りやすいが、槍状のものは、なるほど剪りにくい。どこで剪ってもバランスに欠けるような気がして、作者は困惑している。「どこ掴みても」に、困った感じがよく表われていて面白い。生け花の専門家なら別かもしれないが、共感する読者は多いだろう。では、なぜ困るのか。こういうときには誰しもが、ほとんど無意識的にもせよ、自分なりの美意識を働かせて花を剪ろうとするからである。とにかく適当に剪っておいてから、後で活けるときに調節すればよいなどとは思わないのだ。剪る現場で、おおむねデザインを完了させておこうとする。考えてみればなかなかに面白い心理状態だが、これはそもそも花を活けたいと思う発想に、既にデザイン志向があるからだろう。極論すれば、頭の中に室内でのデザインが浮かぶから活けたいと思うのだ。ところが、このデザインは、時に掲句のように現実と衝突してしまう。自分なりのデザインにしたがって花に近づいてみると、いまのいままでイメージしていた花が、実は似ても似つかぬ正体をあからさまにしてくる。掴んだまではよいのだが、その正体を知ってしまった以上は、急いで己のデザインを修正変更する必要がある。でも、どうやって……。作者は、ここのところを敏感に「掴んで」詠んだ句だ。単純そうでいて、そうではない句だ。『花鳥』(2002)所収。(清水哲男)


September 1592003

 月光写真まずたましいの感光せり

                           折笠美秋

季句としてもよいのだが、便宜上「月」を季語と解し秋の部に分類しておく。「月光写真」は、昔の子供が遊んだ「日光写真」からの連想だ。日光写真は、最近の歳時記の項目からは抹消されているが、古くは「青写真」と呼び、白黒で風景やマンガが描かれた透過紙に印画紙を重ね、日光に当てて感光させた。こちらは、冬の季語。戦後の少年誌の付録によくついてきたので、私の世代くらいだと、たいていは遊んだことがあるはずだ。「墓の上にもたしかけあり青写真」(高浜虚子)。作者は同じような仕組みの月光写真というものがあったとしたら、きっとまず感光したのは「たましい」であったに違いないと想像している。いや、それしかないと断定している。まったき幻想を詠んでいるにもかかららず、ちっとも絵空事に感じさせないところが凄い。日光に比べればあるかなきかの淡い光ゆえ、逆に人の目には見えないものを映し出す。それしかあるまいとする作者の説得に、読者は否応なくドキリとさせられてしまう。おそらくは日頃月の光に感じている何らかの神秘性が、「たましい」を映し出したとしても不思議ではないという方向に働くからだろう。そしてすぐその次に、読者の意識は、仮に自分の「たましい」が感光するとしたら……どんなふうに映るのだろうかと、動いていく。私などとは違って、よほど心の清らかな人でない限りは、想像するだに恐ろしいことだろう。ずいぶん昔にはじめて読んだときには、怖くてうなされるような気持ちになったことを思い出す。『虎嘯記』所収。(清水哲男)




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