朝夕がどかとよろしき残暑かな(阿波野青畝)。日中はともかく朝は寒いくらいの東京。




2003ソスN9ソスソス19ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 1992003

 寂鮎を焼けくちびるの褪せぬ間に

                           吉田汀史

語は「寂鮎」で秋。寂鮎の表記は初見だが、錆鮎(さびあゆ)を雅びにひねった当て字かと思われる。鮎は産卵期になると川を下ってくる(落鮎)が、体に刃物の錆びたような斑点が現れるので錆鮎の名が生まれた。句は、歌人の吉井勇が大正期に書いて大ヒットした「ゴンドラの歌」(作曲・中山晋平)を踏まえている。♪いのち短し 恋せよ少女(おとめ) 朱き唇 褪(あ)せぬ間に 熱き血潮の 冷えぬ間に 明日の月日は ないものを。戦後では、黒澤明が映画『生きる』で使ったことから、愛唱する人が増えた。この句を、私は最初、抱卵した鮎を美少女に焼けという、ちょっと屈折した愛情表現かなと思ったのだが、眺めているうちにそうではなさそうだと思い直した。焼けと言った相手は、昔の美少女に対してなのだと。そう読めば、こうなる。いつまでもぺちゃくちゃ喋っていないで、その口の乾かぬ間に、つまり鮎の鮮度が落ちぬ間に早く焼いてくれよ……と。むろんどちらにも取れる句だが、後者の方が俳諧的なサビが効いている。それに、現在ただいまの美少女に対してならば、単に「くちびる」とは言わずに、やはり「朱き」の形容詞は外せないところだろう。とはいえ、いやあ、こうなると昔の美少女も形無しだななどと読んではいけない。作者は相手が美少女であったことを認めているのだし、だからわざわざ「ゴンドラの歌」を持ち出したのだし、こちらのほうがよほど屈折した愛情表現と受け取れるからだ。男なんてものは、たいていがこうである。もう一句。「七輪を出せこの秋刀魚俺が焼く」。『一切』(2002)所収。(清水哲男)


September 1892003

 槇の空秋押移りゐたりけり

                           石田波郷

本健吉によると、『波郷百句』には次の自註があるそうだ。「一二本の槇あるのみ。然もきりきりと自然の大転換を現じてみせようとした。一枚の板金のやうな叙法」。当然、この言葉には、芭蕉が弟子に与えた有名なお説教、「発句は汝が如く、物二ッ三ッとりあつめて作るものにあらず。こがねを打のべたるやうにありたし」(『去来抄』)が意識されている。作者に言われるまでもなく、掲句に登場する具体的な物体は、そびえ立つ「槇(まき・槙)」の大木のみだ。それのみで、訪れる秋という季節の圧倒的なパワーを詠んだ才能には敬服させられる。雄渾な名句だ。およそ、叙法にゆるぎというものがない。よほど逞しい自恃の心がないと、このように太い線は描けないだろう。波郷、絶好調なり。ただし、この自註は気に入らない。気負った語調も気に入らないが、「一枚の板金のやうな叙法」とはどういうつもりなのか。芭蕉の教えと同じ叙法だよと言いたかったのだろうが、大間違いだ。掲句の叙法は、いわば三次元の世界を限りなく二次元の世界に近づけようとする「板金」の技法とは似ても似つかない。同じ比喩を使うならば、波郷句の技法は三次元の世界を限りなく四次元の世界に近づけたことで説得力が出たのである。光景に「押移りゐたり」と時間性を与えたことで、精彩を放った句なのだから……。まあ、当人が「板金」と言ったのだから、いまさら文句をつけるのも変な話だけれど、芭蕉を誤解した一例としてピンで留めておく価値はあるだろう。芭蕉は、一つの素材をもっともっと大切にねと言ったのだ。「こがねを打のべたるやうに」ありたいのは素材の扱い方なのであって、叙法はその後に来る問題である。『風切』(1943)所収。(清水哲男)


September 1792003

 台風去る花器にあふるる真水かな

                           大塚千光史

語は「台風」で秋。「花器(かき)」は、この場合には平たい水盤と読むのが適当だろう。台風が去ったとき、まず人が期待するのは乾燥である。通過中はあちこちが水浸しになり、その湿気たるやたまらない。風もたまらないけれど、去ってしまえば多少の吹き返しがあるにせよ、おさまるのは時間の問題だ。だが、湿気はそういうわけにはいかない。いつまでも、とくに日の当たらない家の中はじめじめとしている。そんな家の中では、むろんいつもと同じ生活がつづけられているわけで、床の間の花器もいつもと同じように水をいっぱいに張った姿で置かれている。単なる水ということで言えば、花器の水だって台風のもたらした水と何ら変わりはない。が、作者の目には、まったく異質の水と映っている。それが「真水(まみず)」という表現に凝縮した。じめついた部屋の中での水ならば鬱陶しく感じられて当たり前なのだが、この花器の水だけは鬱陶しさから外れている。むしろ清冽の気に「あふれ」ているようでサラサラしており、およそ湿気とは無縁のように見えているのだ。これぞ「真水」だ。そう見えるのは、水盤の純白のせいもあるだろう。活けられている花の姿にも関係しているだろう。しかし、そういうことを言わずに水一点に絞った表現で、作者は台風が去った後の生々しい気分を伝えている。水には水をもって物を言わしめた手柄、と言うべきか。台風一過の句には、戸外の様子を詠んだものが圧倒的に多い。なかで掲句は、その意味からも異色作と言うべきである。『木の上の凡人』(2002)所収。(清水哲男)




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