もう来年用のカレンダーの予約を受け付けている。そういえば、今年はあと百日もない。




2003ソスN9ソスソス26ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 2692003

 銀漢や三つの国の銀貨持ち

                           中田尚子

ロシア銀貨
語は「銀漢(ぎんかん)・天の川」で秋。かつての三高(現・京大)寮歌「紅萌ゆる」に、銀漢が出てくる。「千載秋の水清く 銀漢空にさゆる時 通へる夢は昆崙の 高嶺の此方ゴビの原」。いかにも気負った壮士気取りの歌詞であるが、天の川を仰いで世界に思いを馳せる気持ちは、古今東西の人々に共通するものだろう。銀砂子を撒いたような銀漢を眺めながら、作者もまた世界を思っている。それは、この同じ空の下にある、かつて旅した懐しい国々だ。記念に、大事にしている「三つの国の銀貨」。天にきらめく星の数に比べれば、取るに足らない「三つ」でしかないけれど、作者にはこの「三つ」で十分に雄大な銀漢と釣りあい響きあっているのだ。先の三高寮歌に対するに、なんとつつましやかで心優しく、無垢な少女のように純情可憐な作品であることか。「銀漢」と「銀貨」の視覚的な、そして音律的な響きあいもよく効いている。「持ち」と余韻を残して止めたところも、よい。句にちなんで、星の図柄の銀貨がないかと探して見つけたのが、画像のループル銀貨(ロシア)である。双子座。とても可愛らしいけれど、日本の記念銀貨のように実際に流通していないのではなかろうか。ロシア事情に詳しい方がおられたら、ご教示願いたい。私が社会人になったころに何を記念するのでもない百円銀貨(稲穂のデザイン)が発行されたことがあり、ごく普通に使っていたように覚えているが、どうやらあれがこの国の流通銀貨の最後だったようだ。『主審の笛』(2003)所収。(清水哲男)


September 2592003

 このごろの蝗見たくて田を回る

                           小島 健

語は「蝗(いなご)」で秋。この季節になると、こんな気になるときがある。でも、元来が出不精なので一度も実行したことはない。さすがに、俳人はフットワークがいいなあ。普通、わざわざ蝗を見に行ったりはしないだろうけれど、俳人となれば実作の上で、こうした小さなことの積み重ねが物を言う機会があるのだと思う。で、実際はどうだったのだろうか。「このごろの蝗」を見ることができたのだろうか。「田を回る」とあるから、かなり見て回ったらしいが、収穫は乏しかったように受け取れる。環境的に、さすがに元気者の蝗も育ちにくくなっているのだろう。私の子供のころには、蝗は常に向こうからやって来た。通学のあぜ道などでは、いっせいに飛び立った蝗たちが頬にぶつかってきたりして、「痛てっ」てなものだった。まさに傍若無人とは、あのことだ。稲作農家にとっては一大天敵であった彼らも、しかし正面から見てみると、なかなかに愛嬌があって憎めない顔立ちをしていた。そんな思い出があるから掲句に惹かれたわけで、わざわざ見に行った作者の心持ちにも素直に同感できる。ところで世の中には、この蝗を焼いたりして平気で食う人がいる。就職して東京に出てきてから目撃したのだが、思わず目を覆いたくなった。あの愛嬌のある顔を見たことがある人ならば、とてもそんな残酷な真似はできないはずなのだ。以降、たまに飲み屋で出されたこともあるが、ただちに目の前から下げてもらってきた。「美味いのに……」と訝しげな顔をされると、「幼友達を食うわけにはいかない」と答えてきた。「俳句研究」(2003年10月号)所載。(清水哲男)


September 2492003

 子は電柱の裏側通る鰯雲

                           宮坂静生

者は雑誌「俳句」(2003年10月号)で、「子どもの歩き方には秘密がある。わざわざ電柱の裏へ回って」とコメントしている。その通りではあるのだが、掲句を実感するには、あらためて子供の動きを観察するよりも、自分の子供のころに戻ってみるほうが手っ取り早い。そうすると、大人の目からすれば「秘密」や「わざわざ」と見える振る舞いも、子供にしてみれば「秘密」でもなければ「わざわざ」でもなかったことに思いが至るだろう。考えてみれば、電柱があるような全ての長い道は大人の必要から作られたものだ。子供には、ただ点から点へと移動する目的の道なんぞは必要がないのである。幼稚園や小学校に通う道だって、無ければ無いでいっこうに構わない。それで困るのは、子供ではなくて大人のほうなのだ。だから、子供は道を移動するための場としては捉えずに、ほとんど細長い遊び場として理解している。というか、それ以外の場としての理解が及ばない。したがって、子供自身の意識としては「わざわざ」電柱の裏に回るのではなく、しごく「当然」なこととして回るのである。そのほうが面白いからだ。愉快だからだ。つまり、道の理解については、子供のほうが大人よりもずっと空間的に捉えている。比べて大人は、ずっと二次元的にしか捉えていない。高村光太郎の詩「道程」に、「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」とある。むろん光太郎の道は観念的なそれなのだが、しかし、この道には大人としてのまぎれもない二次元的な道の解釈が前提にある。もはや子供ではなくなった人間の多くの不幸は、このような道の理解からもはじまってゆく。「道程」は、詩人の意に大いに反してではあろうが、そう読まれても仕方のない詩だと思う。掲句を読んだ途端に、ふっと思ったことを書いた。『青胡桃』所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます