木々の葉が少しずつ色づきはじめた。よく晴れても蝉はまったく鳴かなくなった。晩秋へ。




2003ソスN9ソスソス28ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 2892003

 物言へば唇寒し秋の風

                           松尾芭蕉

まりにも有名なので、作者の名前を知らなかったり、あるいは諺だと思っている人も少なくないだろう。有名は無名に通じる。こうした例は、他のジャンルでも枚挙にいとまがない。それはともかく、掲句は教育的道徳的に過ぎて昔から評判は芳しくないようだ。ご丁寧にも座右の銘として、こんな前書までついているからだろう。「人の短をいふ事なかれ 己が長をいふ事なかれ」。虚子も、苦々しげに言っている。「沈黙を守るに若かず、無用の言を吐くと駟(シ)も舌に及ばずで,忽ち不測の害をかもすことになる,注意すべきは言葉であるという道徳の箴言に類した句である。こういう句を作ることが俳句の正道であるという事はいえない」。ま、そういうことになるのだろうが、私はちょっと違う見方をしてきた。発表された当時には、かなり大胆かつ新鮮な表現で読者を驚かせたのではないのかと……。なぜなら、江戸期の人にとって、この「唇」という言葉は、文芸的にも日常的にも一般的ではなかったろうと推察されるからである。言葉自体としては、弘法大師の昔からあるにはあった。が、それは例えば「目」と言わずに「眼球」と言うが如しで、ほとんど医術用語のようにあからさまに「器官」を指す言葉だったと思われる。普通には「口」や「口元」だった。キスでも「口吸ふ」と言い、「唇吸ふ」という表現の一般性は明治大正期以降のものである。そんななかで、芭蕉はあえて「唇」と言ったのだ。むろん口や口元でも意味は通じるけれど、唇という部位を限定した器官名のほうが、露わにひりひりと寒さを感じさせる効果があがると考えたに違いない。「目をこする」と「眼球をこする」では、後者の方がより刺激的で生々しいように、である。したがって、ご丁寧な前書は句の中身の駄目押しとしてつけたのではなくて、あえて器官名を持ち出した生々しさをいくぶんか和らげようとする企みなのではなかったろうか。内容的に押し詰めれば人生訓的かもしれないが、文芸的には大冒険の一句であり、元禄期の読者は人生訓と読むよりも、まずは口元に刺激的な寒さを強く感じて驚愕したに違いない。(清水哲男)


September 2792003

 かの岡に稚き時の棗かな

                           松瀬青々

語は「棗(なつめ)・棗の実」で秋。楕円形の実は秋に熟して黄褐色になり、食べられる。庭木としても植えられてきたが、句の棗はむろん野生種だ。私の田舎にもあったけれど、好んで食べた覚えはない。あまりジューシーでなくパサパサしていたので、一秋に、なんとなく付き合いで二三粒ほど食べたくらいだ。でも、舌はよく覚えているもので、掲句を読むとすぐにあのパサパサ味を思い出していた。いまや棗取りなどには縁がなくなった作者も、「稚き時」に遊んだ岡を遠望して、なっていた様子や味を懐しく思い出している。作者は子規門、明治から昭和初期にかけて活躍した俳人だ。こういう句を読んでつくづく思うのは、いかに私たち日本人が同じ自然とともに生きた時間が長かったかということである。作者の食べた明治の棗も、私の昭和の棗も同じ棗だと言ってよい。江戸期やそれ以前の棗だって、おそらくは同じなのである。自然破壊が進行した今では、なんだか不思議な気がするくらいに、この同一性は保たれつづけてきたのだった。有季定型の俳句文芸は、この同一性に深く依存している。「季語」の発明は、自然と人間とのいわば永遠の共存関係を前提にしたものであり、その関係が現実的に破綻した現在、俳句がギクシャクとしているのも当然と言えるだろう。はっきり言って、もう有季定型に未来は詠めなくなった。伝統的な自然との親和力は、過去と、そしてかろうじての現在に向いてしか働かないからだ。このままだと、遠からず有季定型句は滅びてしまうに違いない。でも、それだっていいじゃないか。というのが、私の立場である。『新歳時記・秋』(1989)所収。(清水哲男)


September 2692003

 銀漢や三つの国の銀貨持ち

                           中田尚子

ロシア銀貨
語は「銀漢(ぎんかん)・天の川」で秋。かつての三高(現・京大)寮歌「紅萌ゆる」に、銀漢が出てくる。「千載秋の水清く 銀漢空にさゆる時 通へる夢は昆崙の 高嶺の此方ゴビの原」。いかにも気負った壮士気取りの歌詞であるが、天の川を仰いで世界に思いを馳せる気持ちは、古今東西の人々に共通するものだろう。銀砂子を撒いたような銀漢を眺めながら、作者もまた世界を思っている。それは、この同じ空の下にある、かつて旅した懐しい国々だ。記念に、大事にしている「三つの国の銀貨」。天にきらめく星の数に比べれば、取るに足らない「三つ」でしかないけれど、作者にはこの「三つ」で十分に雄大な銀漢と釣りあい響きあっているのだ。先の三高寮歌に対するに、なんとつつましやかで心優しく、無垢な少女のように純情可憐な作品であることか。「銀漢」と「銀貨」の視覚的な、そして音律的な響きあいもよく効いている。「持ち」と余韻を残して止めたところも、よい。句にちなんで、星の図柄の銀貨がないかと探して見つけたのが、画像のループル銀貨(ロシア)である。双子座。とても可愛らしいけれど、日本の記念銀貨のように実際に流通していないのではなかろうか。ロシア事情に詳しい方がおられたら、ご教示願いたい。私が社会人になったころに何を記念するのでもない百円銀貨(稲穂のデザイン)が発行されたことがあり、ごく普通に使っていたように覚えているが、どうやらあれがこの国の流通銀貨の最後だったようだ。『主審の笛』(2003)所収。(清水哲男)




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