亡くなった友人を偲ぶ会が続いた。そのたびに、もうそういう年齢なのかと淋しくなる。




2003ソスN9ソスソス29ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 2992003

 石榴割れる村お嬢さんもう引き返さう

                           星野紗一

語は「石榴(ざくろ)」で秋。不思議な味のする句だ。変な句だなあと一度は読み過ごしたが、また気になって戻ってきた。まるで、横溝正史の小説の発端でも読んでいるような雰囲気だ。この状況で、そこここに大きなカラスがギャーギャー鳴きながら飛び回りでもしていたら、おぜん立てはぴったり。作者ならずとも、「もう引き返さう」という気持ちになるだろう。でも、お嬢さんは気丈である。委細構わず物も言わずに、人気の無い村の奥へ奥へと歩み入ってゆく……。周囲にある石榴の木を見上げると、どれもこれもの実が大きく割れており、二人をあざ笑うかのような赤い果肉がおどろおどろしい。気味が悪いなあ……。ところで実際、石榴は、昔は不吉な実として忌み嫌われていたそうである。というのも、東京入谷などの鬼子母神(きしもじん)像を見ると右手に石榴を持っているが、あの石榴には次の言い伝えがあるからだった。この女はもとは鬼女であり千人の子を生んだが、子を養うために、日夜、他人の子を盗んではわが子に与え、地域には悲しみの泣き声が絶えなかった。この話を伝え聞いた釈迦は、女に吉祥果(石榴)を与え、人の子の代わりにその実を食べさせよと戒めたという。この話のため、石榴は人肉の味がするとして嫌われたということだ。嘘か本当かは知る由もないけれど、私もそういえば人肉は酸っぱいものだと聞いたことがある。作者もまた、おそらくはこの話を踏まえて作句しているのだろう。それにしても、奇妙な味の俳句があったものである。この人の句を、もっと読んでみたくなった。もし句集があったら、どなたかお知らせいただければありがたいのですが。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所収。(清水哲男)

[早速……]上記星野紗一句集について、読者より丁寧なご案内をいただきました。ありがとうございました。(29日午前6時30分)


September 2892003

 物言へば唇寒し秋の風

                           松尾芭蕉

まりにも有名なので、作者の名前を知らなかったり、あるいは諺だと思っている人も少なくないだろう。有名は無名に通じる。こうした例は、他のジャンルでも枚挙にいとまがない。それはともかく、掲句は教育的道徳的に過ぎて昔から評判は芳しくないようだ。ご丁寧にも座右の銘として、こんな前書までついているからだろう。「人の短をいふ事なかれ 己が長をいふ事なかれ」。虚子も、苦々しげに言っている。「沈黙を守るに若かず、無用の言を吐くと駟(シ)も舌に及ばずで,忽ち不測の害をかもすことになる,注意すべきは言葉であるという道徳の箴言に類した句である。こういう句を作ることが俳句の正道であるという事はいえない」。ま、そういうことになるのだろうが、私はちょっと違う見方をしてきた。発表された当時には、かなり大胆かつ新鮮な表現で読者を驚かせたのではないのかと……。なぜなら、江戸期の人にとって、この「唇」という言葉は、文芸的にも日常的にも一般的ではなかったろうと推察されるからである。言葉自体としては、弘法大師の昔からあるにはあった。が、それは例えば「目」と言わずに「眼球」と言うが如しで、ほとんど医術用語のようにあからさまに「器官」を指す言葉だったと思われる。普通には「口」や「口元」だった。キスでも「口吸ふ」と言い、「唇吸ふ」という表現の一般性は明治大正期以降のものである。そんななかで、芭蕉はあえて「唇」と言ったのだ。むろん口や口元でも意味は通じるけれど、唇という部位を限定した器官名のほうが、露わにひりひりと寒さを感じさせる効果があがると考えたに違いない。「目をこする」と「眼球をこする」では、後者の方がより刺激的で生々しいように、である。したがって、ご丁寧な前書は句の中身の駄目押しとしてつけたのではなくて、あえて器官名を持ち出した生々しさをいくぶんか和らげようとする企みなのではなかったろうか。内容的に押し詰めれば人生訓的かもしれないが、文芸的には大冒険の一句であり、元禄期の読者は人生訓と読むよりも、まずは口元に刺激的な寒さを強く感じて驚愕したに違いない。(清水哲男)


September 2792003

 かの岡に稚き時の棗かな

                           松瀬青々

語は「棗(なつめ)・棗の実」で秋。楕円形の実は秋に熟して黄褐色になり、食べられる。庭木としても植えられてきたが、句の棗はむろん野生種だ。私の田舎にもあったけれど、好んで食べた覚えはない。あまりジューシーでなくパサパサしていたので、一秋に、なんとなく付き合いで二三粒ほど食べたくらいだ。でも、舌はよく覚えているもので、掲句を読むとすぐにあのパサパサ味を思い出していた。いまや棗取りなどには縁がなくなった作者も、「稚き時」に遊んだ岡を遠望して、なっていた様子や味を懐しく思い出している。作者は子規門、明治から昭和初期にかけて活躍した俳人だ。こういう句を読んでつくづく思うのは、いかに私たち日本人が同じ自然とともに生きた時間が長かったかということである。作者の食べた明治の棗も、私の昭和の棗も同じ棗だと言ってよい。江戸期やそれ以前の棗だって、おそらくは同じなのである。自然破壊が進行した今では、なんだか不思議な気がするくらいに、この同一性は保たれつづけてきたのだった。有季定型の俳句文芸は、この同一性に深く依存している。「季語」の発明は、自然と人間とのいわば永遠の共存関係を前提にしたものであり、その関係が現実的に破綻した現在、俳句がギクシャクとしているのも当然と言えるだろう。はっきり言って、もう有季定型に未来は詠めなくなった。伝統的な自然との親和力は、過去と、そしてかろうじての現在に向いてしか働かないからだ。このままだと、遠からず有季定型句は滅びてしまうに違いない。でも、それだっていいじゃないか。というのが、私の立場である。『新歳時記・秋』(1989)所収。(清水哲男)




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