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October 01102003

 夜学果て口紅颯とひきにけり

                           岩永佐保

語は「夜学」で秋。灯火親しむの候からの季語のようだ。昔は夜学というと、苦学のイメージが強かった。杉山平一が戦中に出した詩集『夜学生』に、同題の詩がある。「夜陰ふかい校舎にひゞく/師の居ない教室のさんざめき/あゝ 元気な夜学の少年たちよ/昼間の働きにどんなにか疲れたらうに/ひたすら勉学にすゝむ/その夜更のラッシュアワーのなんと力強いことだ/きみ達より何倍も楽な仕事をしてゐながら/夜になると酒をくらつてほつつき歩く/この僕のごときものを嘲笑へ……」。むろん戦後のことになるが、私の通学していた高校にも夜間の定時制があった。中学の同級生が通っていたので、その辛さはわかっていたつもりだ。偉いなあと、いつも秘かに敬意を抱いていた。しかし、昨今の夜学には従来の定時制もあるけれど、一方には小学生の塾があり、資格を取るための専門学校があり、カルチャースクールなどもあって、かつての苦学とはすっと結びつかなくなっている。とはいっても、昼間働いて夜學に通うのは大変には違いない。強い意志が必要だ。掲句の若い女性は、何を勉強しに来ているのだろうか。授業が終わって席を立つ前に、「颯(さっ)と」口紅をひいたところに、彼女の強い意志の片鱗が見える。疲れてはいるけれど、身だしなみは忘れない。きちんとした性格の清潔な女性の姿が浮び上ってくる。うっかりすると見過ごしてしまうような仕草から、これだけの短い言葉で、一人の女性像を的確に描き出した作者の腕前は見事だ。『丹青』(2003)所収。(清水哲男)


August 2882004

 音もなく星の燃えゐる夜学かな

                           橋本鶏二

語は「夜学」で秋。大阪の釜が崎に隣接する工業高校(定時制)に三十三年間、国語教師として勤務した詩人の以倉紘平に『夜学生』(編集工房ノア)という著書がある。体験をもとに書かれたドキュメンタリーだ。今日、大多数の人は、当たり前のように昼間の高校に通い卒業していく。私もそのひとりだが、読み終えて非常な衝撃を受けた。一言でいえば「夜学生(夜間高校生)」にこそ社会の矛盾が集中しているのであり、しかも彼らはそれを具体的に引き受けて日々生きていく存在であるということに……。しかし、著者は苦学生である彼らを、ことさらに美化してはいない。困難な条件の下で驚くべき向学心を発揮する者がいるかと思えば、どうしようもないダメ生徒やワルもいる。数々のエピソードは、そんな彼らの姿を生き生きと描き出し、それがそのまま世の中の矛盾を炙り出していく。そしてまた、社会が常に変動していくように、彼らのありようも変化を止めることはない。たとえば著者は「昔のワルは少なくとも正直だった」という。人を殴ったら、それを認める勇気があった。が、現在のワルは認めない。「センコウ、証拠を見せろ」としらを切りつづける。全体的に、向学心も薄れてきたようだ。「かつて、夜学は、人間教育の場であった。人生の困難を背負った生徒たちが、ぶつかり合い、励まし合い、助け合って、最もよき人生の旅を経験するところに意義があった」。そんな時代の生徒たちの生き方には、卒業後も感動的なものがある。とくに連帯感の強さは、全日制高校出身者の比ではない。それが、なぜ、今のように多くの生徒が「しらけ」てしまったのか。ここには、戦後社会の進み方の何か大きな錯誤がある。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


November 05112006

 たはしにて夜学教師の指洗ふ

                           沢木欣一

う40年も前になります。私の通っていた都立高校は、夜間もやっていました。同じ教室で、昼間とは違った生徒が同じ机を使用して授業を受けていました。朝、学校へ行って椅子に坐ると、机の上に自分のものとは違う消しゴムのかすが残っていました。数時間前にここにいた少年の存在を、じかに感じたものです。当時は意味も考えずに「定時制」という言葉を使っていました。昼間の学校も定時といえば定時なのに、何故かこちらのほうは「全日制」と言います。「定時」という言葉には、限られた時間の中に生を込めようとするものの、必死の思いを感じることができます。掲句、たわしで洗わねばならないほどのものとは何なのか、というのが真っ先に思ったことでした。指をたわしで洗うという行為は、自分にひどくこびりついたものを懸命に落している姿を想像させます。わざわざ「夜学」といっているところを見ますと、昼は別の生活を持ち、夜に教鞭をとっている人の、日々の困難さを暗示しているようです。夜に学ぶ生徒たちに会う前に、血がにじんでも落しておきたいものが、この教師にはあったのです。季語は「夜学」。勉強に適した季節という意味で、秋に置かれています。『合本俳句歳時記 第三版』(2004・角川書店)所載。(松下育男)


November 05112011

 夜學子がのぼり階段のこりをり

                           國弘賢治

しぶりに読みたくなって開いた『賢治句集』(1991)にあったこの句は昭和三十二年、亡くなる二年前、四十五歳の作。夜長というより、夜寒の感じがする句である。深夜の静けさの中、帰宅した夜学生が階段をのぼる足音が聞こえ、やがて扉の閉まる音がしてまた静かになる。足音が消えて元の静けさに戻ったのだが、さっきまで意識していなかった階段の存在が、作者の意識の闇の中に浮かび上がり闇は一層深くなる。眠れない夜の中にいて、作者はやがて消えていく自分を含めた人間の存在に思いをめぐらしていたのだろうか。一生病と共にありながら、俳句によって解放されたと自ら書き残している作者にとって、句作によって昇華されるものが確かにあったのだとあらためて思う。(今井肖子)


January 0612012

 先生も校舎も好きだ定時制

                           中西秀斗

校生の俳句といっても実質は大人の俳人と同じレベルだ。野球で甲子園に出るような高校が仮に社会人野球のチームとやっても互角以上の試合が予想されるように、俳句だって知情意のバランスのとれたいわゆる進学校の高校生は技術にも感覚にも秀で、大人の俳人をくすぐる術だって全部こころえている。じゃあそういうこましゃくれたハイティーンに死角はないかというとこれがあるんだな。これに対抗するには自分の現実を泥臭く詠うに尽きる。憤懣やる方ない現実や欠落している自分の部分をさらけだすこと。深刻ぶらないであっけらかんと。彼らに一番欠けているところだ。この句の作者は定時制。昼間は多くが働いている人たちだ。先生が好きだは常套。演出じゃなくてたとえほんとうにそうであったとしても「詩」にはならない。凄いのは「校舎」だな。学校が好きは定番陳腐だが、「校舎」は真実そういう気持がなければ出てこない言葉。昼間商店や工場で働いている人にしか言えない。進学校の生徒には絶対詠えない。作者は学校という概念じゃなくて現実に触れえる校舎という物象が好きなんだと気づいたとき胸が熱くなる。ついこの間まで高校で俳句部を指導していたのでつい戦法のような言い方になってしまった。すみません。『17音の青春2008』所載。(今井 聖)




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