2003N10句

October 01102003

 夜学果て口紅颯とひきにけり

                           岩永佐保

語は「夜学」で秋。灯火親しむの候からの季語のようだ。昔は夜学というと、苦学のイメージが強かった。杉山平一が戦中に出した詩集『夜学生』に、同題の詩がある。「夜陰ふかい校舎にひゞく/師の居ない教室のさんざめき/あゝ 元気な夜学の少年たちよ/昼間の働きにどんなにか疲れたらうに/ひたすら勉学にすゝむ/その夜更のラッシュアワーのなんと力強いことだ/きみ達より何倍も楽な仕事をしてゐながら/夜になると酒をくらつてほつつき歩く/この僕のごときものを嘲笑へ……」。むろん戦後のことになるが、私の通学していた高校にも夜間の定時制があった。中学の同級生が通っていたので、その辛さはわかっていたつもりだ。偉いなあと、いつも秘かに敬意を抱いていた。しかし、昨今の夜学には従来の定時制もあるけれど、一方には小学生の塾があり、資格を取るための専門学校があり、カルチャースクールなどもあって、かつての苦学とはすっと結びつかなくなっている。とはいっても、昼間働いて夜學に通うのは大変には違いない。強い意志が必要だ。掲句の若い女性は、何を勉強しに来ているのだろうか。授業が終わって席を立つ前に、「颯(さっ)と」口紅をひいたところに、彼女の強い意志の片鱗が見える。疲れてはいるけれど、身だしなみは忘れない。きちんとした性格の清潔な女性の姿が浮び上ってくる。うっかりすると見過ごしてしまうような仕草から、これだけの短い言葉で、一人の女性像を的確に描き出した作者の腕前は見事だ。『丹青』(2003)所収。(清水哲男)


October 02102003

 夜霧とも木犀の香の行方とも

                           中村汀女

語は「木犀(もくせい)」で秋。三日前に、突然といった感じで近所の金木犀が甘い香りを放ちはじめた。窓を開けると、噎せるほどの芳香が入ってくる。このところ好天つづのこともあって、暑くもなく寒くもなく、まさに秋本番を迎えたという実感が湧く。句は具象的には何の情景も描いてはいないけれど、木犀の香りのありようを実に巧みに捉えている。夜のしじまに流れているのは霧のような芳香であり、かつまた芳香のような霧でもある。うっとりと夢見心地の秋の夜。そんな気分の良さが滲み出ている句だ。この句は、先ごろ亡くなった(9月13日、享年七十二)平井照敏の編纂した河出文庫版の『新歳時記・秋』(1989)で見つけた。平井さんは詩人として出発し、俳句に移った人だ。楸邨門。この歳時記は平井さんから直接いただいたもので、ここを書くのにとても重宝してきた。まず、季語の解説がわかりやすい。一通りの説明の後に「本意」という別項目があり、語源や命名の由来などが書かれている。たとえば「木犀」の「本意」としては、こういう具合だ。「もくせいと呼ぶのは幹の模様が犀の皮に似ているためである。中国では金桂(うすぎもくせい)、丹桂(きんもくせい)、銀桂(ぎんもくせい)と名づけていた。とくに銀桂がよい。桂の花ともいわれる」。本意だけでも大いに助かるのだが、選句にも筋が一本通っていて参考になる。何句か例句を掲げ、なかで平井さんがベストと判断した句には*印がつけられている点も、類書には見られないユニークなところだ。掲句には*がついている。ぜひお薦めしたい歳時記なのだが、残念なことに版元で品切れがつづいているようだ。ぜひとも増刷してほしい。(清水哲男)


October 03102003

 無花果を煮るふだん着の夕べかな

                           井越芳子

語は「無花果(いちじく)」で秋。無花果は生で食べるのがいちばん美味しいと思うが、煮たり焼いたりする料理法もある。ジャムにする話はよく聞く。ただそういう知識はあっても、無花果を煮たことがないのでよくわからないのだが、なんとなく弱火で煮る必要がありそうな感じがするし、時間がかかりそうな気もする。「ふだん着の」、つまり仕事に出かけない日でないとできない料理でしなかろうか。そう想像すると、秋の夕べの台所に流れる落ち着いた静かな時間が感じられる。「夕べ」というと、働く女性にとってはいつもならばまだ勤務先にいるか、あるいは帰宅途中の時間帯だ。だから、句に流れているような時間は、なかなかに得難い時間なのである。ささやかではあるけれど、休日の幸福で満ち足りたひととき。煮えはじめた無花果の香りが、ほのかに漂ってくる。ところで無花果で思い出したが、世の中には判じ物みたいな苗字があるもので、「九」の一文字、これで「いちじく」と読ませる。この苗字のことを誰かに教えられ、ホンマかいなと思ってずっと以前に調べたときには、東京都の電話帳にちゃんと載っていた。無花果にこだわりがあって、どうしても苗字にしたくて、しかし花の無い果実の表記では縁起が悪いので、窮余の頓智で「九」とつけたのだろうか。明治初期、平民にも苗字をつけることが義務づけられたときのテンヤワンヤには、面白いエピソードがたくさんある。私は「清水」。残念ながら、面白くもおかしくもない。『木の匙』(2003)所収。(清水哲男)


October 04102003

 遼陽に夜も更けたる声ひとつ

                           山口和夫

季。「遼陽(りょうよう)」は、中国遼寧省の都市。さきごろ日本領事館の門前で、いわゆる脱北者の女性と子供を中国警官が引き戻す出来事のあった瀋陽の南側に位置する。遼・金時代には東京(とうけい)と称した。さて、いま遼陽と聞いて、ある歴史的なエピソードを思い浮かべられるのは、七十代以上の方々だろう。日露戦争時の最初の激戦地だ。ロシア兵23万、対する日本側は14万。日本軍はロシア側の損害を上回る3万人近い犠牲者を出しながらも、勝利する。まさに両軍、血みどろの闘いだった。このときに戦死した一人が橘周太歩兵第一大隊長で、死後は軍神として崇められ、「軍神橘中佐の歌」までが作られ大いに流行したという。前書も注釈もないが、掲句はおそらく、この歌を踏まえていると読む。「遼陽城頭 夜は闌(た)けて 有明月の 影すごく 露立ちこむる 高梁の  中なる塹壕 声絶えて 目ざめがちなる 敵兵の 肝驚かす 秋の風」。突撃命令が下る前の、寂として声も無い緊張の一瞬だ。そして歳月は流れゆき、現代人の作者ははるかなる古戦場に「声ひとつ」を聞いている。その声は、むろんお国のためにと死んでいった兵士の声でなければならない。それも決して勇ましい鬨(とき)の声などではなく、かそけくも悲哀の淵に沈んだ呻きのような苦しげな声である。時は移り人は代わり、もはや忘れられてしまったかつての大会戦の地に、なおも死者の声だけが彷徨っている……。勇ましい軍神の歌を踏まえつつ、作者は反対に戦争の空しさを訴えているのだ。いちおう無季としたが、遼陽の会戦は1904年(明治37年)八月末のことだったので、作者の意識には秋季があったと思う。『黄昏記』(2002)所収。(清水哲男)


October 05102003

 足場から見えたる菊と煙かな

                           永末恵子

ういう句は好きですね。高い「足場」に登って見渡したら「菊と煙」とが見えた。ただそれだけのことながら、よく晴れた秋の日の空気が気持ち良く伝わってくる。工事現場の足場だろうか。ただし、登っているのは作者ではない。作者は、登って仕事をしている人を下から見上げている。高いところに登れば、地面にいては見られないいろいろなものが一望できるだろう。あの人には、いま遠くに何が見えているのか。と、ちらりと想像したときに、作者は瞬間的に「菊と煙」にちがいないと思ったのだ。そうであれば素敵だなと、願ったと言ってもよい。菊と煙とは何の関係もないけれど、理屈をつければ菊は秋を代表する花だし、立ち昇るひとすじの煙ははかなげで秋思の感覚につながって見える。でも、こんな理屈は作者の意にはそぐわないだろう。作者は、もっと意識的に感覚的である。だから読者が感心すべきは、見えているはずのいろいろなものから、あえて菊と煙だけを取りあわせて選択したセンスに対してだ。ナンセンスと言えばナンセンス。しかし、このナンセンスは作者のセンスの良さを明瞭に示している。試みに、菊と煙を別のものに置き換えてみれば、このことがよくわかる。むろん私はやってみたけれど、秋晴れの雰囲気を出すとなると、「菊と煙」以上のイメージを生むことは非常に難しい。ただ工事現場を通りかかっただけなのに、こんなふうに想像をめぐらすことのできるセンスは素晴らしいというしかない。羨ましいかぎりだ。もう一句。「秋半ば双子の一人靴をはく」。いいでしょ、このセンスも。『ゆらのとを』(2003)所収。(清水哲男)


October 06102003

 栗ひらふひとの声ある草かくれ

                           室生犀星

室義弘『文人俳句の世界』を、ときどき拾い読みする。犀星の他には、久米三汀(正雄)や瀧井孝作、萩原朔太郎などの句が扱われている。掲句も、この本で知った。文人俳句という区分けにはさしたる意味を見出し難いが、強いて意味があるとすれば、彼らが趣味や余技として句を作ったというあたりか。だから、専門俳人とは違い楽に気ままに詠んでいる。しゃかりきになって句をテキストだけで自立させようなどとは、ちっとも思っていない。そこが良い。ほっとさせられる。しかし、これらも昔からのれっきとした俳句の詠み方なのだ。俳句には、こうした息抜きの効用もある。最近の俳句雑誌に載るような句は、この一面をおろそかにしているような気がしてならない。息苦しいかぎり。芭蕉などもよくそうしたように、彼ら文人もまた手紙にちょこっと書き添えたりした。そうした極めて個人的な挨拶句が多いのも、文人俳句の特長だろう。同書によると、この句は、軽井沢の葛巻義敏(芥川龍之介の甥)から栗を送られたときの礼状にある。「栗たくさん有難う。小さいのは軽井沢、大きいのはどこかの遠い山のものならんと思ひます」などとあって、この句が添えられている。そして書簡には、句のあとに「あぶないわ。」とひとこと。受けて、小室は次のように書く。「この添え書は絶妙。これによって、足もとの草に散らばった毬やそれを避けて拾う二、三人の人物の構図がほうふつしてくる。小説風に構成された女人抒情の一句と言ってよい」。つまり、掲句は「あぶないわ。」のひとことを含めて完結する句というわけだろう。五七五で無理やりにでも完結させようとする現代句は、もっとこの楽な姿勢に学んだほうがよろしい。後書きでも前書きでもくっつけたほうが効果が上がると思ったら、どんどんそうすべきではあるまいか。ただし、「○○にて」なんてのでは駄目だ。これくらいに、洒落てなければ。(清水哲男)


October 07102003

 針千本飲ます算段赤のまま

                           櫛原希伊子

語は「赤のまま(赤のまんま)」で秋。蓼(たで)の花。粒状の赤い花が祝い事に出される赤飯に似ているので、この名がついたという。女の子のままごと遊びでも、赤飯に見立てられる。揚句は、そんなままごと時代の思い出だろう。「指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲〜ますっ、指切った」と、あれほど固い約束をしたのに、友だちが約束を破った。よし、どうしてこらしめてやろうかと「算段」しながら、友だちを待ち伏せている。明るい秋の日差しのなかで、赤のままが揺れている。あのときは本当に怒っていたのだけれど、今となっては懐かしい思い出だ。何を約束し、どんなふうに仕返しをしたのかも忘れてしまった。久しく音信も途絶えているが、彼女、元気にしてるかなア。子供のときによく遊んだ友だちのことは、喧嘩したことも含めて懐かしい。もう二度と、あの頃には戻れない。ところで、この「針千本」の針のことを、私はずっと縫い針のようなものかと思ってきた。が、念のためにと調べてみたら、どうやら間違いのようである。といって、定説はない。が、縫い針ではなくて、魚のフグの一種とする説が有力だ。その名のとおり、体表にウロコが変化した強くて長い針を持っている。実際には、針は350〜400本程度。普段、針は後ろ向きに寝かせているが、危険が迫ると体をふくらませて針を立たせる。こうなると、ウニやクリのイガのようになってしまい、何者もよせつけない。こんなものを飲まされて、腹の中でふくらまれてはたまらないな。縫い針にせよフグにせよ、現実的には飲めるわけもないが、比喩としては、一度に飲ますことのできそうなフグのほうがより現実的だと言うべきか。『櫛原希伊子集』(2000)所収。(清水哲男)


October 08102003

 裏山に椎拾ふにも病女飾る

                           大野林火

語は「椎(の実)」で秋。寝たり起きたりの「病女」は、妻ないしは母だろう。今日はよほど気分がよいらしく、裏山に椎の実を拾いにいくと言う。こんなときに、男だったら髭も剃らずに無造作な格好で出かけてしまうところだが、女性は違う。鏡に向かって、念入りに「飾」っている。誰かに会う気遣いもほとんどないのに、しかも短時間で椎の実をいくつか拾ってくるだけなのに……。女性のたしなみというのか、身を飾ることへの執着というのか、作者はその思いの強さに感嘆しているのだ。弱々しい病気の女性と地味な椎の実との取り合わせが、いっそう「飾る」という行為に精彩を与えている。子供のころ、近所に椎の大木があったので、通りがかりによく拾って食べたものだった。物の本には、栗についで美味と書いてあったりするけれど、そんなに美味じゃなかったような記憶がある。当時見た映画に『椎の実学園』というのがあって、肢体不自由児を持つ父親が教員の職を捨て、そうした子供たちだけを集める施設を作り、みんなで励ましあいながら暮らすという話だった。椎の実が熟するには二年もかかるというから、学園名はそのことに由来しているのかもしれない。主題歌があり、歌詞はおぼろげながらメロディはきちんと覚えている。♪ぼくらは椎の実 まあるい椎の実、お池に落ちて遊ぼうよ……と、そんな歌詞だった。でも、映画を見ながら、私は「まあるい椎の実」に引っ掛かった。嘘だと思った。私が拾っていた椎の実に丸いものはなく、いずれもが扁平な形をしていたからである。映画だから嘘もありかな。長い間そう思っていたのだけれど、実は椎の木には二種類あることを、大人になってから知ることになる。私が拾っていた実は「スダジイ」の実であり、映画のそれは「ツブラジイ」の実なのであった。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


October 09102003

 地図に見る明日行くところ萩の卍

                           池田澄子

語は「萩」で秋。原句には仮名が振ってあるが、さて、この「卍」を何と読むか。国語辞書的に読めば「まんじ(意味は万字)」で、それ以外の読み方はない。「梵語 svastika ヴィシュヌなどの胸部にある旋毛。功徳円満の意。仏像の胸に描き、吉祥万徳の相とするもの。右旋・左旋の両種があり、わが国の仏教では主に左旋を用い、寺院の記号などにも用いる[広辞苑第五版]。というわけで、作者は「てら」と読ませている。なるほど、句の「卍」は漢字じゃなくて地図記号だから、逆に「まんじ」と読んでは変なのだ。と、気がついてにやりとさせられる。そういえば、地図は記号だらけである。いや、地図の全ては記号でできている。作者のように、ふだん私たちは何気なく地図を使っているけれど、そう思うと、相当に高度なことをやっているわけだ。小学校の低学年くらいまでは、まず地図を見ても何が何だかわからないだろう。でも、かくいう私が、それではどのくらい地図記号を知っているかというと、およそ160種あると言われる記号の半数も知らない。掲句に好奇心を触発されて、調べてみてがっかりした。いい加減に覚えているものも多い。たとえば学校を表す記号は「文」であるが、この「文」を○で囲った記号もある。どう違うのかを、ついさっきまで知らなかった。単に「文」とあれば小中学校を示し、○囲いは高等学校を示すのだそうだ。全ての記号には根拠があり、「卍」や「文」などには誰にでもうなづけるそれがある。しかし、なかには見当もつかないのがあって、×の○囲いは警察記号だけれど、この根拠は那辺にあるのだろうか。こんなところにお世話になっちゃいけませんぞ。みたいにも感じられるが、まさかねエ。ちなみに「卍」が地図に登場したのは、1888年のことだという。俳誌「豈」(2003年10月・37号)所載。(清水哲男)


October 10102003

 木守柿妻の名二人ある系図

                           秦 夕美

語は「木守柿(きもりがき)」で秋。代々長くつづいている家だと、寺に行けば過去帳(鬼籍)なるものがある。寺で、檀徒の死者の戒名(法名)、実名、死亡した年月日などを記入しておく帳簿だ。我が家では父が分家初代なので存在しないが、義父が亡くなったときに見たことがある。三百年ほど前からの記録だったと記憶しているが、眺めていると、他人の家のことでもじわりと感慨が湧いてくる。はるか昔から生き代わり死に代わりして、現在まで血がつづいてきたのか。会ったこともないご先祖様のあれこれも想像されて、そこには単なる記録を越えた何かがあった。作者の家には仏壇の抽き出しに、同様の書類が残されてきたという。なかに、後妻○○と記された何人かの女性名がある。むろん最初の妻との死別による再婚もありうるが、なかには「家風に合わぬ」「子なきは去れ」と追い出された先妻のあとの座にすわった女性もいるかもしれない。いずれにしても、家中心の社会、男中心の社会のなかで、犠牲になる女性は多かった。「妻の名二人」のどちらかは、そのような犠牲者だったことはあり得るわけだ。そこには、どんなドラマがあったのだろうか。作者はそんな女たちの怨念を思いながら、次のように書く。「高い梢には夕日のしずくのような赤い実が残されていた。その『木守柿』が私には未練を残しつつ去った女たちの魂のように思えてならなかった」。『秦夕美・自解150句選』(2002)所収。(清水哲男)


October 11102003

 末枯れや目上と云うも姉ひとり

                           市川静江

語は「末枯れ(うらがれ)・末枯」で秋。晩秋に、草や木の葉が先の方から枯れてくることを言う。「末(うら・うれ)」は、物の根元に対して先端のこと。木の先端を指す「梢」も、本意としては「木末」から来ている。作者はこの季語を、人間もまた草木と同様に末枯れてゆく宿命だと詠んでいて印象深い。ふと気がついてみたら、周辺に「目上(めうえ)」と呼べる人は姉ひとりしかいなくなってしまっていた。年齢を重ねてくるとは、こういうことなのかという感慨。この感慨が実景の末枯れとが見事に照応しあっていて、心に沁みる。作者のことは何も知らないけれど、寂しい取り残されたような気持ちはよく伝わってくる。このときに、末枯れている草木には晩秋の弱々しい日が射している。そんな季節が、今年も間もなく訪れようとしている……。ところで、この「目上」という言葉だが、単に実際的に年齢が上だとか地位が上だということだけではなくて、この表現には相手に対する尊敬や敬愛の念が含まれていると読みたい。近来とみに失われてきたのは、その意味での目上意識ではあるまいか。べつに昔の修身を押しつけるつもりはないが、最近の若者を見ているとそんな気がしてならないのだ。小さいころから両親や教師を友だちみたいにして育ってきているので、無理もないのかもしれない。したがって、彼らの敬語の乱れなどがよく問題になるけれど、目上意識のない者にいくら教えこもうとしたって、そもそも敬語を話す心的根拠がないのだから、無理な相談というものなのである。「現代俳句年鑑」(2002)所載。(清水哲男)


October 12102003

 をりとりてはらりとおもきすすきかな

                           飯田蛇笏

語は「すすき(芒・薄)」で秋。秋の七草の一つ。さて、今日は三連休の中日ですね。お勤めの方々には、三日間の中でもいちばんリラックスした気分で過ごせる日ではないかと思います。やっぱり日頃の土日二連休とは違って、いつもと同じ日曜日の感じではありませんよね。なんてったって、明日も「また」休めるのですから。非常に得をしたようなご気分の方が多いでしょう。そこで、ひとつどうでしょうか。近所の河原にでも出かけてみて、すすきを手折るなどして句のような風流を味わってみては……。でも、てな誘いにうかうかと乗せられて、すすきを手折ろうなんてことはしないほうが良いですよ。あの茎はとても強くてしぶといですから、普通の人には手折るなんて上品な行為では、まず「をりと」るのは無理でしょう。力任せに左右に何度もねじって、引き千切るくらいの野蛮さが必要です。学生時代にはじめて掲句に出会ったとき、私は蛇笏を人並外れた怪力の持ち主かと思いましたね。どう考えても、この句は丈の高い丈夫なすすきを「をりとりて」いるとしか読めません。なにしろ、手にして「はらりとおもき」なのですからね。そんなすすきを、句はたやすく手折ったように印象づけていますが、またそれでなくては句の美しさが失われてしまいますが、本当にさらりと「をりと」ったのだとすれば凄いことです。私だったら、「ねじきって」とか「ねじおって」、あるいは刃物で「きりとって」とでもやるところでしょうか。しかし、これでは「はらりとおもき」とはいきませんから駄目でしょう。名句の誉れ高いこの句は、ま、あらまほしき世界を描いたフィクションとしての名作なんでしょうね。世の中には「はらりとおもき」に目を奪われた解釈が圧倒的ですが、「をりとりて」にもう少し注目する必要があろうかと思います。むろん、私は俳句のフィクションを否定しません。否定しませんが、これはいささかやり過ぎじゃないのかと。いかにも実際めかした衣裳が、どうにもいただけませんので。(清水哲男)


October 13102003

 幾何眠く少女が使ふぶんまわし

                           筑紫磐井

季。おお、懐しや「ぶんまわし」。幾何などで円を描くときに使う文具、コンパスのこと。長い間、実際に使ったこともないし、この言葉もすっかり忘れていた。そういえば、他に「分度器」だとか「三角定規」だとかも。学校を卒業してしまうと、生涯無縁になる道具は他にもいろいろとありそうだ。ところで、この「ぶんまわし」という言葉を、私は方言かと思っていた。というのも、最初に使ったのは山口県の中学の時で、そのときはみんな「ぶんまわし」と言っていた。が、東京に出てきたら、誰も「ぶんまわし」と言わずに「コンパス」と呼んでいたからだ。で、この句に出会って念の為にと思い『広辞苑』を引いてみたら、ちゃんと出ていた。漢字には「規」が当てられ、「1・円を描くのに用いる具。コンパス。源平盛衰記37「急ぎ張りける程に―をあしざまにあてて」。2・まわり舞台」[ 広辞苑第五版 ]とある。なるほど、コンパスなる西洋の言葉が入ってくるまでは「ぶんまわし」が一般的で、方言などではなかったのだ。考えてみれば、コンパスに当たる和語があるのは当然である。西洋と接触する以前から、私たちの先祖は道具を使って円を描いていたのだから。さて、掲句。幾何の時間に眠気を払うように、「ぶんまわし」を使っている少女の姿が浮かんでくる。解法など見当もつかないのに、ただ闇雲に「ぶんまわし」をぶんまわしている。この少女像を澁谷や原宿あたりに繰り出してくる女子高生にだぶらせてみると、とても可笑しい。いっぱし小生意気な顔をしているけれど、そうか、学校ではこうやって「勉強」しているのか。まだまだ、可愛いもんだ。セレクション俳人12『筑紫磐井集』(2003)所収。(清水哲男)


October 14102003

 新米を燈下に検すたなごゝろ

                           久米三汀

語は「新米」で秋。「検す」は「ためす」。農夫が精米し終えた新米の出来具合を、「燈下」で仔細に真剣な目つきで眺めている。品質如何で、この秋の出荷価格が決まるからだ。たぶん、この年の出来には不安があったのだろう。昼間も見て等級にちょっと不安を持ったので、夜にもう一度、こうして念入りに検しているのである。武骨な農夫のてのひらの上の繊細な光沢の米粒との取り合わせが、米作りに生活をかけている農夫の緊張感を静かに伝えて見事だ。私たちの多くは、このように米の一粒一粒を熱心に見つめることはない。また、その必要もない。だから、たまさかこういう句に出会うと、生産に携わる人たちのご苦労に思いをいたすことになる。昔の農村のことしか知らないけれど、米の品質検査の日は、子供までがなんとなく緊張させられたものだった。検査官がやってきて、庭に積んだ俵の山のなかからいくつか任意の俵を選んで調べてゆく。彼は槍状に先をとがらせた細い竹筒を持っており、そいつを無造作に俵にずぶりと突き刺す。すると竹筒の管を通って、なかの米粒が彼のてのひらにこぼれ落ちてくる仕掛けだ。が、たいていの場合に、てのひらから溢れた米粒が地面にばらばらっとこぼれ落ちてしまう。そのたびに、子供の私は「痛いっ」と思った。むろん、親のほうがもっと痛かったに違いない。そんな遠い日の体験もあって、掲句はことのほかに身にしみる。三汀・久米正雄は小説家だから、自分のことを詠んでいるわけではない。が、ここまで微細に感情移入できるのは、農家の仕事に敬意を払う日常心があってこそのことだろう。『返り花』(1943)所収。(清水哲男)


October 15102003

 渋柿やボクよりオレで押し通す

                           大塚千光史

語は「渋柿・柿」で秋。渋柿の生き方というのも変だけれど、擬人化すれば確かに「ボク」よりも「オレ」のほうがふさわしい。「ボク」には、どこかに甘ったるいニュアンスが含まれている。「押し通す」の渋柿の意地は、作者の生き方とも重なり合っているのだろう。書き言葉にせよ話し言葉にせよ、日本語の人称は種類が多いので、何を使うかによって相手に与える印象も違ってくる。女性の「わたし」と「あたし」との一字違いでも、ずいぶん違う。また、ひところ若い女性に「ボク」が流行ったことがあるけれど、「私」としてはあまり良い印象を受けなかった。男との対等性を主張したい気持ちは理解できたが、張り合う気持ちが前面に出すぎているようで鼻白まされた。書き言葉では「私」しか使わない私も、話し言葉になるとほとんど無意識的に使い分けている。親しい友人知己には「オレ」、目上や初対面の人には「ワタシ」、両親には「ボク」といった具合だ。二人称では「オマエ」「キミ」「アナタ」、あるいは苗字を呼ぶなどして、拾い出してみればけっこう複雑なことをやっているのに気がつく。よく言われるように、単一か二種類くらいの人称しか持たない言語圏の人にとっては、ここにも日本語の難しさがある。人称が多いということは、おのずから自己と他者との関係の多層化をうながし、同時に曖昧化することにもつながっていく。言うなれば、日本語を使う人は、常に他者との距離の取り方を意識している。私はこれを人見知りの言語と呼ぶが、句のように「オレ」一本で押し通すとは、この距離を取っ払うことだ。おのれを粉飾しないということである。といっても、むろん人称の統一化だけで自分を全てさらすわけにもいかないが、その第一歩としては必要な心構えだろう。この問題は、無人称も含めて、考えれば考えるほど面白い。『木の上の凡人』(2002)所収。(清水哲男)


October 16102003

 白粉花の風のおちつく縄電車

                           河野南畦

語は「白粉花(おしろいばな)」で秋。この場合は「おしろい」と読ませている。栽培もされるが、生命力が強いのか、野生のものが多いという印象。それも路地裏などによく咲いており、夕方にしか開かないので、秋の寂しげな暮色とあいまって、そぞろ郷愁を誘われる。昔は夕仕度の煙や匂いが町内にながれ、豆腐屋のラッパが聞こえてきた。そんな路地への、元気な子供たちの登場だ。白粉花を揺らしている冷たい風も、子供たちには関係がない。それを「風のおちつく」と言ったのだろう。「縄電車」は子供の遊びで、輪にした縄の前方に運転手役、後方に車掌役の子が入り、残りの子は乗客の役となって「ちんちん電車(路面電車)」ごっこと洒落る。「電車ごっこ」という文部省唱歌(小学一年用)があったくらいだから、ひところは全国的に隆盛をきわめた遊びだった。♪運転手は君だ 車掌は僕だ あとの四人が電車のお客 お乗りはお早く動きます ちんちん。この歌で注目すべきは「車掌は僕だ」と誇らしげなところ。実際、電車ごっこでは車掌役がいちばん面白い。キップに鋏を入れたり、出発の笛を吹いたり、次の停車駅名をアナウンスしたりと、することが沢山あるからだ。運転手役は先頭にいて一見偉そうなのだが、ただ偉そうなだけで、すべては車掌の指示に従わなければならない。お客に小さな子がいれば、あまりスピードを出せないわけで、それも最後尾の車掌が縄を引いてコントロールする。誰もが車掌になりたがった。あれで、なかなか子供社会も複雑なのだ。「おしろいが咲いて子供が育つ路地」(菖蒲あや)。掲句と合わせて読むと、子供たちに活気のあった時代がいよいよ偲ばれる。『俳句の花・下巻』(1987)所載。(清水哲男)


October 17102003

 もう逢わぬ距りは花野にも似て

                           澁谷 道

語は「花野(はなの)」で秋。秋の草花の咲き乱れる野のこと。それも、広々とした高原や原野などの自然の野を言う。いかにも文芸的な言葉と言おうか、詩語と言おうか、昔でも口語としては使われなかったのではなかろうか。おそらくは、和歌から発した雅語的な書き言葉だろう。そう思ってきたから、私など無粋者には使いにくい季語の一つだ。「村雨の晴るる日影に秋草の花野の露や染めてほすらむ」(大江貞重・1312年『玉葉集』)。また「距り」は、「きょり」ではなく「へだたり」と読ませるのだろう。このあたりも和歌的な句の感じがするけれど、全体的にも和歌的な雰囲気を湛えた発想だ。片思いの句。恋しいが、逢えば逢うほどつらくなる。そこで「もう逢わぬ」と固く思い決めてはみたものの、やはり後ろ髪を引かれるような気持ちが残る。思い決めてみると、相手とのへだたりは無限に遠くなるはずが、なお「花野にも似て」、すぐにでも引き返せそうなそうでないような曖昧な距離として感じられると言うのだ。広い野に咲く花々は、作者の思慕の念の象徴とも見え、恋の成就ののちの楽しかるべき幸福な時間のそれとも映る。しかしいまそこには、寂しい秋の風が吹き渡っているのだ。「花野にも似て」の連用止めは極めて和歌的で、ここに作者の秋風に揺れ動く花のような寂しさが込められている。女性ならではの美しくも切ない句だと読めた。『縷紅集』(1983)所収。(清水哲男)


October 18102003

 野菊また国家の匂い千々に咲く

                           坪内稔典

語は「野菊」で秋。野菊という種類はなく、野生の菊の総称だ。作者の意識のなかには、むろん皇室の紋章(菊型ご紋・十六弁八重表菊)がある。野菊も仲間だからして、同じように「国家の匂い」がするわけだ。このあたり、ちょっと意表を突かれる。というのも、私たちは通常皇室の紋に匂いを感じることはないからだ。なんとなく無臭というイメージを持ってきているが、言われてみればなるほど、匂ってこその菊の花である。鎌倉期の後鳥羽上皇が愛でたことから天皇家代々の紋として定着したのだそうだが、上皇は当然その匂いへの愛着をも込めて図案化したはずである。それが幾星霜を経るうちに、とりわけて明治以降の天皇独裁制で庶民との関係が完全に切れて以来、紋の匂いも雲の上に消えてしまった。明治以前の京都では、御所の近所を「天皇はんが散歩してはった」と世間話に出るくらいに、まだ庶民との距離は近かったのである。すなわち、この句は野菊の匂いを詠んでいるのだが、逆に天皇家の菊紋の匂いをあらためて読者に想起させることになったというわけだ。そして「千々に」は、「君が代」の歌詞「千代に八千代に」にうっすらと掛けてある。仁平勝に言わせると、坪内稔典の方法は「ひとことでいえば、言葉の属性をすべて利用すること」だが、その通り。掲句も「菊」一語の属性からの連想展開で、これだけの妙な生々しさを出せるところがネンテン俳句の面目なのである。『猫の木』(1987)所収。(清水哲男)


October 19102003

 りんご箱りんごの隙の紅い闇

                           日野口晃

そらく、作者は「りんご」の生産農家の人だろう。でなかったら、こんなにじっくりと「隙」まで見ることはしない。昔は籾殻(もみがら)に埋めて出荷したので「隙」は見えなかったが、現在ではパックに詰めるので見えるというわけだ。尻まで紅みのついた完熟りんごを、傷がついていないかを念入りに確かめながら詰めてゆく。詰め終わったら、最後の仕上げに箱詰めにするのだが、このときの句だ。手塩にかけて育ててきたりんごたちを、蓋をする前に、もう一度ていねいに眺めている。さながら画家が描いた絵を手放すときのように、達成感といささかの寂しさとが胸中に交錯し去来するときである。その思いを「紅い闇」にぽっと浮き上がらせたところが、なんとも美しくも素晴らしい。現場の人でなければ、とても思いつかない措辞だろう。愛情が滲み出ている。掲句は、青森県弘前市で開かれた第14回俳人協会東北俳句大会(2003年8月31日)の大会賞受賞作。開催地にふさわしい秀句だ。ところで、いまと違って、昔のりんご箱やみかん箱は木箱だった。だから、本来の用途が終わっても、いろいろに活用された。箱だけでも売られていた。私の場合には、二十歳前までは勉強机や本箱代わり。ちゃんとした自分の机が持てたのは、大学生になってからだった。思えば、ずいぶんと長い間お世話になったものである。そしてまた、現在は「りんご印」のパソコンという箱のお世話になっている。俳人協会機関紙「俳句文学館」(2003年10月5日付)所載。(清水哲男)


October 20102003

 山桜もみぢのときも一樹にて

                           茨木和生

の紅葉は早い。早い地方では九月の終わりころから色づきはじめ、他の樹の紅葉を待たずに早々と散ってしまう。ただ、句の場合は「山桜」だから、どうなのだろうか。子供のころの山の通学路に、それこそ山桜の「一樹」があったけれど、花の季節ならばともかく、紅葉のことなどは何も覚えていない。子供に、紅葉を鑑賞するような風流心はないし、あったら気色が悪い。端正な句だ。かくされているのは「花が咲くときも」であり、こうしてひっそりと年輪を重ねていく山桜の存在感をよく表している。私はこの種の自然のありようを人生の比喩として捉えるのは好まないが、掲句にはおのずからそのように読ませてしまう力が働いているようだ。やはり「一樹」だからだろう。盛りのときも枯れてゆくときも、せんじ詰めれば、しょせんは人も「一人」という思いを誘い出される。二十年も前のことだが、黒衣のシャンソン歌手ジュリエット・グレコが私の番組に出演してくれたことがあった。スタジオの窓からは皇居の紅葉がよく見える季節で、しばらく眺めていた彼女は「あれは私の色よ」と、かすかに微笑した。「私の色、人生の秋の色ね」と繰り返した。さすがにシャンソン歌手らしく上手いことを言うなと感心すると同時に、日本人なら「人生の秋」とまでは誰もが言うけれど、その色(紅葉)までを自分の年齢になぞらえることはしないなとちらりと思った記憶がある。むろんグレコが見たのは山桜の紅葉ではなかったが、掲句を読んで、ふっとそんなことも思い出されたのだった。『野迫川』所収。(清水哲男)


October 21102003

 舌噛むなど夜食はつねにかなしくて

                           佐野まもる

語は「夜食」で秋。なぜ「かなし」なのかといえば、夜食は本来夜の労働と結びついおり、夜遊びの合間に食べるというものではないからである。夜遅くまで働かないと生活が成り立たない、できればこんな境遇から逃げ出したい。そんな暮しのなかにあっての夜食は、おのれの惨めさを味わうことでもあった。ましてや「舌噛むなど」したら、なおさらに切ない。虚子にも、夜食の本意に添った「面やつれしてがつがつと夜食かな」がある。現代では早朝から夜遅くまで働きづめの人は少なくなったので、本意からはかなり外れた意味で使われるようになった。したがって、楽しい夜食もあるわけだ。京都での学生時代に、銀閣寺から百万遍あたりを流していた屋台のラーメン屋がいた。深夜零時過ぎころから姿を現わす。学生なんて人種は、勉強にせよ麻雀などの遊び事にせよ、宵っ張りが多いので、ずいぶんと繁盛していた。カップラーメンもなかった時代、むろんコンビニもないから、腹の減った連中が切れ目無く食べに来るという人気だった。いや、そのラーメンの美味かったこと。食べ盛りの食欲を割り引いても、そんじょそこらのラーメン屋では味わえない美味だったと思う。醤油ラーメン一本だったが、その後もあんな味に出会ったことはない。いま行くと、百万遍の交差点のところにちょっとした中華料理店がある。そこの社長が、実はあのときの屋台のおじさんだという噂を聞いたことがあるけれど、真偽のほどは明らかではない。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


October 22102003

 鬣に残る朝露ライオンショー

                           松崎麻美

語は「朝露・露」で秋。サーカスの「ライオンショー」である。サーカスの実物は、田舎での少年時代に一度見たきりだ。村の共同作業場で開かれて、超満員だった。わくわくしながら見ていたわりには、詳細を覚えていない。それまでには見たこともなかった背の低い男が走り回っていたことと、もう一つは綱渡り。和服で足袋姿の女性が、派手な和傘を広げて私の席のほぼ真上を渡って行ったのだから、これはもう身の危険を感じてハラハラドキドキものだった。覚えているのは、それくらいだ。しかし、動物は何も出てこなかったと思う。人間でさえ食うに困っていたときだから、大きな動物を連れて巡業できたわけもない。いや、その前に戦時中、いわゆる猛獣の類はみな薬殺されており、連れて歩こうにも存在しなかったのだ。というわけで、掲句はむろん現代のサーカスを詠んでいる。出てきたライオンの「鬣(たてがみ)」にまだ「朝露」が残っていると感じたのは、もとより作者の主観によるものだ。そしてこのときに、朝露はライオン本来の持つ野性を読者に思い起こさせる。人に飼われ人を喜ばせるための芸を仕込まれたライオンではあるけれど、それでも野性を完全に失ったのではない。そのことを、作者ははかない朝露に湿った鬣に暗示させている。見せ物としての猛獣を描いて、秀逸な一句だ。ああ、サーカスは哀し。なお、句集では全ての句に作者自身による英訳が付されているので、それも引用しておこう。「a lion on a pedestal/his mane still moist/with the morning dew」。日英語俳句集『海の音 The Sound of the Ocean』(2003)所収。(清水哲男)


October 23102003

 松手入梯子の先に人探す

                           星野恒彦

語は「松手入(まつていれ)」で秋。松の木の手入れ。晩秋、新葉が完全に伸び切り古葉が赤くなってくると、古葉を取り去り樹形をととのえ、来年の芽を整備する。非常に難しい作業だそうだ。通りすがりの松の木の下にたくさんの古葉が落ちていたのか、あるいは木の上で鋏の音がしていたのか。思わず作者は、立て掛けてある「梯子」をたどって上にいるはずの「人」を探したと言うのである。それだけのことながら、俳句ならではの作品で面白い。えっ、どこが面白いの、それがどうしたの。そう思う読者もいそうだ。もちろん「それがどうしたの」という世界なのだが、面白いのは詠まれている中身ではなくて、その詠み方である。誰もが日頃ほとんど無意識的に働かせている目の動きを、意識的に言葉にしたところだ。人が目で何かを探すときには、必ず手がかりを求め、それをたぐっていく。この場合は梯子であり、たとえば空飛ぶ鳥を探すときには鳴き声を手がかりにし、美味しそうな匂いをたぐって食物を見つけたりする。すなわち、探す目は手がかりを得なければ働かないメカニズムを持っているわけだ。ま、手がかりがなければ、探そうとはしないのだが……。そのメカニズムの一例を句は具体的に表現して、人の目の働き方万般について述べたのである。面白くないと思う読者がいるとしたら、たぶんここらへんを読もうとしないからだろう。掲句の場合には、一見中身と思えるものは実は句の上っ面なのであって、表面的に読まれると作者は大いに困ってしまう。俳句ならではと言った所以だ。なお余談ながら、手品師は多くこのメカニズムを利用する。或るものを手がかりと思わせておき、客の目線をあらぬ方向に誘導するテクニックに長けている。『邯鄲』(2003)所収。(清水哲男)


October 24102003

 次世代の飢餓など知らん濁り酒

                           鈴木 明

語は「濁り酒」で秋。「どぶろく」の名でおなじみの酒だが、新米を使うことから秋季とされる。昔から今にいたるも、この酒には法律に違反して製造された密造酒が多い。現行の酒税法はだいぶ緩和されてきたとはいえ、まだまだ気楽に作るわけにはいかない。酒類の製造免許を受けないで酒類を製造した場合は、5年以下の懲役又は50万円以下の罰金に処せられる。逆に簡単に言えば、税金さえちゃんと払えば製造してもよろしいというのが法律の趣旨だ。それを承知で秘かに作って飲むのだから、本来の味に加えて危険な味もするわけである。アメリカの禁酒法時代が良い例だが、飲み助はどんなことをしたって、飲みたいときには飲む。法律もへちまもあるもんか……、と作者が飲んでいるのかどうかは知らねども、これが普通に酒屋で売っている清酒だったとしたら句にはならない。やはり、どこかに危険な香りがあるから「知らぬ」の語勢が強まるのである。作者は私より三歳年上だけれど、ほぼ同世代と言ってよいだろう。子供のころに飢餓を体験した世代だ。「次世代」にこんな思いだけはさせたくないと、がむしゃらに働いてきて、ふっと世の中を見回してればこの始末。どんな始末かは野暮になるから書かないが、ともかく「次世代」には総じて失望させられることのほうが多い。他方では、そんな「次世代」を作ってしまったこちらが悪いのではないかという複雑な思いもある。どこでどう歯車が狂っちまったのか。同じ濁り酒でも、若き日の島崎藤村は「濁り酒濁れる飲みて 草枕しばし慰む」と書いた。が、こっちにはもはやそんな悠長な時間なんてないんだ。もう、どうなったって知らねえゾと、ひとり寂しく吼えながら飲む作者の気持ちはよくわかる。『白-HAKU-』(2003)所収。(清水哲男)


October 25102003

 帰ろかな帰りたいのだ神無月

                           高野 浩

日から「神無月(かんなづき)」に入った。季語としては冬季に分類。もう冬か。この旧暦十月の異称の由来には諸説ある。もっともポピュラーなのは諸国の神々が出雲大社に集まる月というものだが、大昔に「な」は「の」の意だったので、素直に「神の月」と解したほうがよさそうだ。収穫を祝い神に感謝を捧げる月というわけである。句は出雲集合説に拠っており、神々が大移動するのかと思うと、自分もまた久しく帰っていない故郷に帰りたくなったという意味だろう。出雲出身の人なのかもしれない。なんだか北島三郎の歌の文句みたいな句だけれど、駄目押し的な「帰りたいのだ」で、帰心矢の如しの思いがよく伝わってくる。「帰ろかな」の逡巡は生活上の諸般の事情によるものであり、そうした条件を考えなければ、本心は一も二もなく「帰りたいのだ」。この人は、帰っただろうか。さて私事になるが、今夜私は高速バスに乗る。夜通しかけて、山口県の萩市まで行く。明日の中学の同窓会に出るためで、はじまる時間が正午とあっては、バスを使うしか方法がない。今日のうちに新幹線で新山口まで出ておくテもあるけれど、それこそ事情が許さない。一晩中バスに揺られた経験はないが、ま、ヨーロッパあたりに出かけることを思えば同じことだ。むしろ楽だろう。元気なうちに旧友に会っておこうと、逡巡の果てに決めてしまった。私の故郷は、いまは萩市から車だと三十分ほどで行けるようになったそうだ。天気が良ければ、行ってみたいと思う。なにしろ、三十年ぶりの故郷である。天気が悪くても、やっぱり行ってしまうだろうな。金子兜太編『現代俳句歳時記』(1989・千曲秀版社)所載。(清水哲男)


October 26102003

 秋入日かちかち山に差しにけり

                           原田 暹

語は「秋入日(秋の日)」。「差しにけり」が秀逸だ。秋の夕日というと、どうしても釣瓶落しに意識が向きがちだが、秋だって夕日はちゃんと差すのである。日差しは夏場よりもずいぶんと弱々しいが、紅葉した山などに差すと、セピア色の写真ではかなわないような得も言われぬ情趣を醸し出す。「かちかち山」は実在しないから、むろん空想句だ。でも作者は、どこかでの実景から発想したのだろう。折しも秋の入日を正面から受けはじめた小さな山をみて、あっ「かちかち山」みたいだと思ったのだ。この誰もが知っている民話(昔話・お伽噺)は、いまどきの絵本などではマイルドに味付けされているけれど、元来は殺し合いの残酷なストーリーだった。いたずら狸を罠にかけ、狸汁にしようと天井から吊るしておくお爺さんからして残酷だし、巧みにお婆さんを騙して殴り殺し「ばばあ汁」をお爺さんに食べさせる狸の残忍さ。そして、お爺さんになり代わって狸をこらしめる白兎も、正義の味方かもしれないが、執拗にサディスティックに狸をいたぶりまくり、ついには泥舟もろとも沈めてしまうという陰湿さ。「かち栗」欲しさに狸が背負わされた柴に火をつけるべく、兎がかちかちと火打ち石を打っていると、狸が聞く。「かちかちって聞こえるけど、何の音だろうね」。「ここが『かちかち山』だからさ」と、兎。そんな会話の後に、転げ回って狸が苦しんだ山。そう自然に連想した作者は、実景のおそらくは名も無き平凡な山にも、数々の出来事が秘められていると感じたのだろう。このときに、赤い入日は民話の日差しとなっている。『天下』(1998)所収。(清水哲男)


October 27102003

 鶉飛ぶ広い世界を見るでなく

                           笠井 円

語は「鶉(うずら)」で秋。雑誌「俳句」に「17字の冒険者」というページがあって、毎号若手の句を載せており、若い人の感覚や感性が興味深くて愛読している。掲句は発売中の11月号に掲載されていた。作者は1973年生まれというから、ちょうど三十歳だ。鶉はラグビーボールみたいにずんぐりとした体形で、鳴き声も良く、なかなか愛嬌のある鳥である。ただ無精というのか何というのか、この鳥はなかなか飛ぼうとしない。人や犬が近づいてきても、まずはチョコマカと走って草叢のなかに隠れようとする。鳥なんだから飛んで逃げればいいのにと思うが、もはやギリギリに切羽詰まったときでないと飛ぼうとしない。しかも高くは飛ばず、低空飛行だ。それでいて、寒くなると暖かい土地へ長距離移動していくのだから、なんだ、飛ぼうと思えばちゃんと飛べるんじゃないか。句は、そうした鶉の生態をよく捉えていて、面白い。せっかくの羽を持ちながら「広い世界を見るでなく」、ナニ考えてんだろ、こいつらは。そんな趣である。だいたい人間が飛行機を発明したのは、鳥への憧れがあったからだ。あんなふうに高いところを飛んで、広い世界を見てみたいと願ったからである。「鳥瞰」という古くからの言葉もあるくらいで、その憧れには長く熱い歴史もある。だから、もしもこの世の鳥が鶉だけだったとしたら、おそらく飛行機は発明されなかったに違いない。町の自転車屋だったライト兄弟も、ついに自転車屋のおじさんのままで一生を終えただろう。なお近年野性の鶉は減少しているが、飼育種が増えているため、総個体数としては昔と変わらないそうだ。(清水哲男)


October 28102003

 枇杷男忌や色もて余しゐる桃も

                           河原枇杷男

語は無い。無季句だ。もちろん「桃(の実)」は秋の季語だけれど、こういう場合の分類は忌日がメインゆえ、それを優先させる。では「枇杷男忌」が四季のいずれに当たるかということになるわけだが、それが全くわからない。なぜなら、枇杷男は現在関西の地に健在存命の俳人だからである。もっとも彼には「死にごろとも白桃の旨き頃とも思ふ」という句があって、西行の「花の下にて春死なん」じゃないけれど、どうやら桃の実の熟するころに死にたいという希求はあるようだが、希求はあくまでも希求であって確定ではない。勝手に自分の命日を決めてもらっては困る。……とまあ、ここまでは半分冗談だが、けっこうこれは方法的には恐い句だ。中身としては、人の忌日だというのにあまりにも健康そうに熟した桃が、恥じておのれの色艶をもて余している情景である。本当は喪に服して少しは青く縮こまっていたいのに、なんだかやけに溌剌として見えてしまう姿をどうしようもないのだ。おお、素晴らしき善なる桃の実よ。私が恐いというのは、やはり自分の命日を自分で作って詠むというところだ。辞世の句なら生きているうちに詠むのが当たり前だが、たとえ冗談や遊び半分、あるいは悪趣味のつもりでも、そう簡単に自分の命日を詠めるものではない。論より証拠、試してみればわかります。私も真似してみようと思ったけれど、すぐに恐くなって止めてしまった。よほど日頃から自分の死に対して、人生は生きるに値するかの答えの無い命題を真摯に考え、性根が坐っている人でないと不可能だと思われた。その意味で、掲句の方法は作者の生き方につながる文芸上の態度を明確に示したものだと言わなければならない。枇杷男を論ずるに際しては、欠かせない一句だろう。『河原枇杷男全句集』(2003)所収。(清水哲男)


October 29102003

 斬られ役また出て秋を惜しみけり

                           泉田秋硯

語は「秋惜しむ」。山口県の萩市で開かれた中学の同窓会に出席した後で、三十年ぶりに故郷(山口県阿武郡むつみ村)を訪れてみた。快晴のなかの村の印象はいずれ書くとして、村を離れる前に友人宅に立ち寄って二時間ばかり話をした。私がいろいろ昔の思い出を確認する恰好の話のなかで、秋祭のことを尋ねたら、いまでも昔と同じ形式で続けられているという。奉納されるメインイベントのお神楽も、伝統を守って昔ながらに演じられているようだ。ただ子供の私には神楽はたいして面白いものではなく、その後に行われる村芝居が何よりの楽しみだったのだけれど、さすがにこちらは途絶えてしまっていた。集落単位で何年かごとの交代制で一座をこしらえて、主に国定忠次や石川五右衛門などの時代劇を上演したものだ。これが、いろいろな意味で面白かった。日頃無口な近所のおじさんが舞台に上がって「絶景かな、絶景かな」なんて叫んでいたりして、大いにたまげたこともある。句は、そんな芝居の事情を詠んでいる。なにしろ出演者が少ないので、ちょっとしか出ない「斬られ役」は、すぐに別のシーンで別の役を演じざるを得ないわけだ。ついさっき情けなくもあっさり斬られて引っ込んだ男が、また出てきて、今度は神妙な顔つきで月を見上げたりして行く秋を惜しんでいる図である。なんとなく妙な感じがして可笑しいのだが、一方ではどことなく哀しい。村芝居には、素人ならではの不思議な魅力がある。むろん作者の力点も、この不思議な味にかけられているのだろう。『宝塚より』(1999)所収。(清水哲男)


October 30102003

 秋の夜の漫才消えて拍手消ゆ

                           西東三鬼

後5年目、昭和二十五年(1950年)の作。まだまだ娯楽の乏しい時代だった。作者はラジオで「漫才」を楽しんでいたのだが、それも終わってしまい、拍手もふっと消えていった。この一瞬の寂しさは、ある程度の年齢に達した人でないと理解できないだろう。当時、むろんテレビはないし、ラジオもNHK一局である。終わったからといって、いまのように他局のお笑い番組を探すわけにはいかない。終わったら、それっきりだ。もう少し笑っていたかったのにと、作者はしばしラジオを見つめている。夜の長い季節ならではの、それも当時ならではの哀感だ。このように、俳句はしばしばスナップショット的に、庶民の日常生活の断片を記録しつづけてきた。三鬼句のなかでは目立たない作品ながら、その意味では珍重に値する一句だ。まったくの憶測でしかないのだけれど、このときに三鬼が聞いていた番組は「上方演芸会」だったのではなかろうか。昭和二十四年にはじまったこの番組は、新作台本と公開録音方式をベースにした構成で人気を獲得し、途中で何度か番組名は変わったが、また元の「上方演芸会」に名を戻して現在もつづいている(NHK第1/毎週金曜日21:30〜21:55)。さきごろ亡くなった夢路いとしと喜味こいしの兄弟漫才が全国的に名を馳せたのも、この番組のおかげと言ってもよいくらいだ。折しも彼らの番組デビューは上掲の三鬼句と同じ年であり、ひょっとすると三鬼が聞いていたのは新進気鋭の「いとしこいし」コンビだったのかもしれない。そう想像すると、いとしの死去のこともあり、そぞろ秋風が身にしみる思いになる。『西東三鬼句集』(2003・芸林21世紀文庫)所収。(清水哲男)


October 31102003

 露霜の紅さして母残りけり

                           岸田稚魚

語は「露霜(つゆじも)・秋の霜」。晩秋に降りる露が寒さで凍って半ば霜となり、うっすらと白く見える状態を言う。したがって、「水霜(みずしも)」とも。まだ多くは降りないが、往々にして農作物や草木をいためてしまうことがある。しのびよる冬の前触れだ。先日訪れた中国山脈のどてっぱらに位置する故郷の村でも、露霜が降りるようになったと聞いた。句の露霜は実景ではあろうが、白いものが目立ちはじめた母親の頭の様子にもかけてあるのだろう。父親が鬼籍の人となって日は浅く、そして残された母親にも人生の冬が訪れようとしている。それでも毎朝「紅」をさして、身だしなみをととのえることは忘れない。寒い朝、そんな母を見るともなく見ている作者には、この母こそが自分にとっての「紅」とも思われ、明るくも寂しい気持ちに誘われている。生涯病弱であった作者の履歴を知ると、ますます掲句の切なさが高まってくる。彼は、どんなにか母親に励まされ助けられてきたことだろうか。世に母を思う句はたくさんあるけれど、なかでも掲句は季語と人のありようとが無理なく溶け合っていて、深い感銘を覚える。これぞ、俳句ならではの詩表現と言ってよい。さて、早いもので、今日で十月が終わりますね。あと一週間ほどで立冬(十一月八日)。そして翌日九日の衆院選があわただしく過ぎた頃には、東京あたりでもひっそりと露霜が見られるようになり、だんだん寒くなってくるでしょう。みなさま、どうぞ御身お大切に。『筍流し』(1972)所収。(清水哲男)




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