Maria Shell。亡くなった詩人の佃学がうわ言のように彼女の名前を唱えていた。学生時代。




2003ソスN10ソスソス11ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 11102003

 末枯れや目上と云うも姉ひとり

                           市川静江

語は「末枯れ(うらがれ)・末枯」で秋。晩秋に、草や木の葉が先の方から枯れてくることを言う。「末(うら・うれ)」は、物の根元に対して先端のこと。木の先端を指す「梢」も、本意としては「木末」から来ている。作者はこの季語を、人間もまた草木と同様に末枯れてゆく宿命だと詠んでいて印象深い。ふと気がついてみたら、周辺に「目上(めうえ)」と呼べる人は姉ひとりしかいなくなってしまっていた。年齢を重ねてくるとは、こういうことなのかという感慨。この感慨が実景の末枯れとが見事に照応しあっていて、心に沁みる。作者のことは何も知らないけれど、寂しい取り残されたような気持ちはよく伝わってくる。このときに、末枯れている草木には晩秋の弱々しい日が射している。そんな季節が、今年も間もなく訪れようとしている……。ところで、この「目上」という言葉だが、単に実際的に年齢が上だとか地位が上だということだけではなくて、この表現には相手に対する尊敬や敬愛の念が含まれていると読みたい。近来とみに失われてきたのは、その意味での目上意識ではあるまいか。べつに昔の修身を押しつけるつもりはないが、最近の若者を見ているとそんな気がしてならないのだ。小さいころから両親や教師を友だちみたいにして育ってきているので、無理もないのかもしれない。したがって、彼らの敬語の乱れなどがよく問題になるけれど、目上意識のない者にいくら教えこもうとしたって、そもそも敬語を話す心的根拠がないのだから、無理な相談というものなのである。「現代俳句年鑑」(2002)所載。(清水哲男)


October 10102003

 木守柿妻の名二人ある系図

                           秦 夕美

語は「木守柿(きもりがき)」で秋。代々長くつづいている家だと、寺に行けば過去帳(鬼籍)なるものがある。寺で、檀徒の死者の戒名(法名)、実名、死亡した年月日などを記入しておく帳簿だ。我が家では父が分家初代なので存在しないが、義父が亡くなったときに見たことがある。三百年ほど前からの記録だったと記憶しているが、眺めていると、他人の家のことでもじわりと感慨が湧いてくる。はるか昔から生き代わり死に代わりして、現在まで血がつづいてきたのか。会ったこともないご先祖様のあれこれも想像されて、そこには単なる記録を越えた何かがあった。作者の家には仏壇の抽き出しに、同様の書類が残されてきたという。なかに、後妻○○と記された何人かの女性名がある。むろん最初の妻との死別による再婚もありうるが、なかには「家風に合わぬ」「子なきは去れ」と追い出された先妻のあとの座にすわった女性もいるかもしれない。いずれにしても、家中心の社会、男中心の社会のなかで、犠牲になる女性は多かった。「妻の名二人」のどちらかは、そのような犠牲者だったことはあり得るわけだ。そこには、どんなドラマがあったのだろうか。作者はそんな女たちの怨念を思いながら、次のように書く。「高い梢には夕日のしずくのような赤い実が残されていた。その『木守柿』が私には未練を残しつつ去った女たちの魂のように思えてならなかった」。『秦夕美・自解150句選』(2002)所収。(清水哲男)


October 09102003

 地図に見る明日行くところ萩の卍

                           池田澄子

語は「萩」で秋。原句には仮名が振ってあるが、さて、この「卍」を何と読むか。国語辞書的に読めば「まんじ(意味は万字)」で、それ以外の読み方はない。「梵語 svastika ヴィシュヌなどの胸部にある旋毛。功徳円満の意。仏像の胸に描き、吉祥万徳の相とするもの。右旋・左旋の両種があり、わが国の仏教では主に左旋を用い、寺院の記号などにも用いる[広辞苑第五版]。というわけで、作者は「てら」と読ませている。なるほど、句の「卍」は漢字じゃなくて地図記号だから、逆に「まんじ」と読んでは変なのだ。と、気がついてにやりとさせられる。そういえば、地図は記号だらけである。いや、地図の全ては記号でできている。作者のように、ふだん私たちは何気なく地図を使っているけれど、そう思うと、相当に高度なことをやっているわけだ。小学校の低学年くらいまでは、まず地図を見ても何が何だかわからないだろう。でも、かくいう私が、それではどのくらい地図記号を知っているかというと、およそ160種あると言われる記号の半数も知らない。掲句に好奇心を触発されて、調べてみてがっかりした。いい加減に覚えているものも多い。たとえば学校を表す記号は「文」であるが、この「文」を○で囲った記号もある。どう違うのかを、ついさっきまで知らなかった。単に「文」とあれば小中学校を示し、○囲いは高等学校を示すのだそうだ。全ての記号には根拠があり、「卍」や「文」などには誰にでもうなづけるそれがある。しかし、なかには見当もつかないのがあって、×の○囲いは警察記号だけれど、この根拠は那辺にあるのだろうか。こんなところにお世話になっちゃいけませんぞ。みたいにも感じられるが、まさかねエ。ちなみに「卍」が地図に登場したのは、1888年のことだという。俳誌「豈」(2003年10月・37号)所載。(清水哲男)




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