Grace Kelly。「裏窓」での息を飲むような美しさ。骨太なので好きじゃないという人も。




2003ソスN10ソスソス13ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 13102003

 幾何眠く少女が使ふぶんまわし

                           筑紫磐井

季。おお、懐しや「ぶんまわし」。幾何などで円を描くときに使う文具、コンパスのこと。長い間、実際に使ったこともないし、この言葉もすっかり忘れていた。そういえば、他に「分度器」だとか「三角定規」だとかも。学校を卒業してしまうと、生涯無縁になる道具は他にもいろいろとありそうだ。ところで、この「ぶんまわし」という言葉を、私は方言かと思っていた。というのも、最初に使ったのは山口県の中学の時で、そのときはみんな「ぶんまわし」と言っていた。が、東京に出てきたら、誰も「ぶんまわし」と言わずに「コンパス」と呼んでいたからだ。で、この句に出会って念の為にと思い『広辞苑』を引いてみたら、ちゃんと出ていた。漢字には「規」が当てられ、「1・円を描くのに用いる具。コンパス。源平盛衰記37「急ぎ張りける程に―をあしざまにあてて」。2・まわり舞台」[ 広辞苑第五版 ]とある。なるほど、コンパスなる西洋の言葉が入ってくるまでは「ぶんまわし」が一般的で、方言などではなかったのだ。考えてみれば、コンパスに当たる和語があるのは当然である。西洋と接触する以前から、私たちの先祖は道具を使って円を描いていたのだから。さて、掲句。幾何の時間に眠気を払うように、「ぶんまわし」を使っている少女の姿が浮かんでくる。解法など見当もつかないのに、ただ闇雲に「ぶんまわし」をぶんまわしている。この少女像を澁谷や原宿あたりに繰り出してくる女子高生にだぶらせてみると、とても可笑しい。いっぱし小生意気な顔をしているけれど、そうか、学校ではこうやって「勉強」しているのか。まだまだ、可愛いもんだ。セレクション俳人12『筑紫磐井集』(2003)所収。(清水哲男)


October 12102003

 をりとりてはらりとおもきすすきかな

                           飯田蛇笏

語は「すすき(芒・薄)」で秋。秋の七草の一つ。さて、今日は三連休の中日ですね。お勤めの方々には、三日間の中でもいちばんリラックスした気分で過ごせる日ではないかと思います。やっぱり日頃の土日二連休とは違って、いつもと同じ日曜日の感じではありませんよね。なんてったって、明日も「また」休めるのですから。非常に得をしたようなご気分の方が多いでしょう。そこで、ひとつどうでしょうか。近所の河原にでも出かけてみて、すすきを手折るなどして句のような風流を味わってみては……。でも、てな誘いにうかうかと乗せられて、すすきを手折ろうなんてことはしないほうが良いですよ。あの茎はとても強くてしぶといですから、普通の人には手折るなんて上品な行為では、まず「をりと」るのは無理でしょう。力任せに左右に何度もねじって、引き千切るくらいの野蛮さが必要です。学生時代にはじめて掲句に出会ったとき、私は蛇笏を人並外れた怪力の持ち主かと思いましたね。どう考えても、この句は丈の高い丈夫なすすきを「をりとりて」いるとしか読めません。なにしろ、手にして「はらりとおもき」なのですからね。そんなすすきを、句はたやすく手折ったように印象づけていますが、またそれでなくては句の美しさが失われてしまいますが、本当にさらりと「をりと」ったのだとすれば凄いことです。私だったら、「ねじきって」とか「ねじおって」、あるいは刃物で「きりとって」とでもやるところでしょうか。しかし、これでは「はらりとおもき」とはいきませんから駄目でしょう。名句の誉れ高いこの句は、ま、あらまほしき世界を描いたフィクションとしての名作なんでしょうね。世の中には「はらりとおもき」に目を奪われた解釈が圧倒的ですが、「をりとりて」にもう少し注目する必要があろうかと思います。むろん、私は俳句のフィクションを否定しません。否定しませんが、これはいささかやり過ぎじゃないのかと。いかにも実際めかした衣裳が、どうにもいただけませんので。(清水哲男)


October 11102003

 末枯れや目上と云うも姉ひとり

                           市川静江

語は「末枯れ(うらがれ)・末枯」で秋。晩秋に、草や木の葉が先の方から枯れてくることを言う。「末(うら・うれ)」は、物の根元に対して先端のこと。木の先端を指す「梢」も、本意としては「木末」から来ている。作者はこの季語を、人間もまた草木と同様に末枯れてゆく宿命だと詠んでいて印象深い。ふと気がついてみたら、周辺に「目上(めうえ)」と呼べる人は姉ひとりしかいなくなってしまっていた。年齢を重ねてくるとは、こういうことなのかという感慨。この感慨が実景の末枯れとが見事に照応しあっていて、心に沁みる。作者のことは何も知らないけれど、寂しい取り残されたような気持ちはよく伝わってくる。このときに、末枯れている草木には晩秋の弱々しい日が射している。そんな季節が、今年も間もなく訪れようとしている……。ところで、この「目上」という言葉だが、単に実際的に年齢が上だとか地位が上だということだけではなくて、この表現には相手に対する尊敬や敬愛の念が含まれていると読みたい。近来とみに失われてきたのは、その意味での目上意識ではあるまいか。べつに昔の修身を押しつけるつもりはないが、最近の若者を見ているとそんな気がしてならないのだ。小さいころから両親や教師を友だちみたいにして育ってきているので、無理もないのかもしれない。したがって、彼らの敬語の乱れなどがよく問題になるけれど、目上意識のない者にいくら教えこもうとしたって、そもそも敬語を話す心的根拠がないのだから、無理な相談というものなのである。「現代俳句年鑑」(2002)所載。(清水哲男)




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