Marilyn Monroe。「こんなに美しい顔の人に、私は会ったことがない」(F.アルヌール)。




2003ソスN10ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 15102003

 渋柿やボクよりオレで押し通す

                           大塚千光史

語は「渋柿・柿」で秋。渋柿の生き方というのも変だけれど、擬人化すれば確かに「ボク」よりも「オレ」のほうがふさわしい。「ボク」には、どこかに甘ったるいニュアンスが含まれている。「押し通す」の渋柿の意地は、作者の生き方とも重なり合っているのだろう。書き言葉にせよ話し言葉にせよ、日本語の人称は種類が多いので、何を使うかによって相手に与える印象も違ってくる。女性の「わたし」と「あたし」との一字違いでも、ずいぶん違う。また、ひところ若い女性に「ボク」が流行ったことがあるけれど、「私」としてはあまり良い印象を受けなかった。男との対等性を主張したい気持ちは理解できたが、張り合う気持ちが前面に出すぎているようで鼻白まされた。書き言葉では「私」しか使わない私も、話し言葉になるとほとんど無意識的に使い分けている。親しい友人知己には「オレ」、目上や初対面の人には「ワタシ」、両親には「ボク」といった具合だ。二人称では「オマエ」「キミ」「アナタ」、あるいは苗字を呼ぶなどして、拾い出してみればけっこう複雑なことをやっているのに気がつく。よく言われるように、単一か二種類くらいの人称しか持たない言語圏の人にとっては、ここにも日本語の難しさがある。人称が多いということは、おのずから自己と他者との関係の多層化をうながし、同時に曖昧化することにもつながっていく。言うなれば、日本語を使う人は、常に他者との距離の取り方を意識している。私はこれを人見知りの言語と呼ぶが、句のように「オレ」一本で押し通すとは、この距離を取っ払うことだ。おのれを粉飾しないということである。といっても、むろん人称の統一化だけで自分を全てさらすわけにもいかないが、その第一歩としては必要な心構えだろう。この問題は、無人称も含めて、考えれば考えるほど面白い。『木の上の凡人』(2002)所収。(清水哲男)


October 14102003

 新米を燈下に検すたなごゝろ

                           久米三汀

語は「新米」で秋。「検す」は「ためす」。農夫が精米し終えた新米の出来具合を、「燈下」で仔細に真剣な目つきで眺めている。品質如何で、この秋の出荷価格が決まるからだ。たぶん、この年の出来には不安があったのだろう。昼間も見て等級にちょっと不安を持ったので、夜にもう一度、こうして念入りに検しているのである。武骨な農夫のてのひらの上の繊細な光沢の米粒との取り合わせが、米作りに生活をかけている農夫の緊張感を静かに伝えて見事だ。私たちの多くは、このように米の一粒一粒を熱心に見つめることはない。また、その必要もない。だから、たまさかこういう句に出会うと、生産に携わる人たちのご苦労に思いをいたすことになる。昔の農村のことしか知らないけれど、米の品質検査の日は、子供までがなんとなく緊張させられたものだった。検査官がやってきて、庭に積んだ俵の山のなかからいくつか任意の俵を選んで調べてゆく。彼は槍状に先をとがらせた細い竹筒を持っており、そいつを無造作に俵にずぶりと突き刺す。すると竹筒の管を通って、なかの米粒が彼のてのひらにこぼれ落ちてくる仕掛けだ。が、たいていの場合に、てのひらから溢れた米粒が地面にばらばらっとこぼれ落ちてしまう。そのたびに、子供の私は「痛いっ」と思った。むろん、親のほうがもっと痛かったに違いない。そんな遠い日の体験もあって、掲句はことのほかに身にしみる。三汀・久米正雄は小説家だから、自分のことを詠んでいるわけではない。が、ここまで微細に感情移入できるのは、農家の仕事に敬意を払う日常心があってこそのことだろう。『返り花』(1943)所収。(清水哲男)


October 13102003

 幾何眠く少女が使ふぶんまわし

                           筑紫磐井

季。おお、懐しや「ぶんまわし」。幾何などで円を描くときに使う文具、コンパスのこと。長い間、実際に使ったこともないし、この言葉もすっかり忘れていた。そういえば、他に「分度器」だとか「三角定規」だとかも。学校を卒業してしまうと、生涯無縁になる道具は他にもいろいろとありそうだ。ところで、この「ぶんまわし」という言葉を、私は方言かと思っていた。というのも、最初に使ったのは山口県の中学の時で、そのときはみんな「ぶんまわし」と言っていた。が、東京に出てきたら、誰も「ぶんまわし」と言わずに「コンパス」と呼んでいたからだ。で、この句に出会って念の為にと思い『広辞苑』を引いてみたら、ちゃんと出ていた。漢字には「規」が当てられ、「1・円を描くのに用いる具。コンパス。源平盛衰記37「急ぎ張りける程に―をあしざまにあてて」。2・まわり舞台」[ 広辞苑第五版 ]とある。なるほど、コンパスなる西洋の言葉が入ってくるまでは「ぶんまわし」が一般的で、方言などではなかったのだ。考えてみれば、コンパスに当たる和語があるのは当然である。西洋と接触する以前から、私たちの先祖は道具を使って円を描いていたのだから。さて、掲句。幾何の時間に眠気を払うように、「ぶんまわし」を使っている少女の姿が浮かんでくる。解法など見当もつかないのに、ただ闇雲に「ぶんまわし」をぶんまわしている。この少女像を澁谷や原宿あたりに繰り出してくる女子高生にだぶらせてみると、とても可笑しい。いっぱし小生意気な顔をしているけれど、そうか、学校ではこうやって「勉強」しているのか。まだまだ、可愛いもんだ。セレクション俳人12『筑紫磐井集』(2003)所収。(清水哲男)




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