Anne Bancroft。なんてったって『卒業』のミセス・ロビンソン。中年女性の誘惑の恐さ。




2003ソスN10ソスソス23ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 23102003

 松手入梯子の先に人探す

                           星野恒彦

語は「松手入(まつていれ)」で秋。松の木の手入れ。晩秋、新葉が完全に伸び切り古葉が赤くなってくると、古葉を取り去り樹形をととのえ、来年の芽を整備する。非常に難しい作業だそうだ。通りすがりの松の木の下にたくさんの古葉が落ちていたのか、あるいは木の上で鋏の音がしていたのか。思わず作者は、立て掛けてある「梯子」をたどって上にいるはずの「人」を探したと言うのである。それだけのことながら、俳句ならではの作品で面白い。えっ、どこが面白いの、それがどうしたの。そう思う読者もいそうだ。もちろん「それがどうしたの」という世界なのだが、面白いのは詠まれている中身ではなくて、その詠み方である。誰もが日頃ほとんど無意識的に働かせている目の動きを、意識的に言葉にしたところだ。人が目で何かを探すときには、必ず手がかりを求め、それをたぐっていく。この場合は梯子であり、たとえば空飛ぶ鳥を探すときには鳴き声を手がかりにし、美味しそうな匂いをたぐって食物を見つけたりする。すなわち、探す目は手がかりを得なければ働かないメカニズムを持っているわけだ。ま、手がかりがなければ、探そうとはしないのだが……。そのメカニズムの一例を句は具体的に表現して、人の目の働き方万般について述べたのである。面白くないと思う読者がいるとしたら、たぶんここらへんを読もうとしないからだろう。掲句の場合には、一見中身と思えるものは実は句の上っ面なのであって、表面的に読まれると作者は大いに困ってしまう。俳句ならではと言った所以だ。なお余談ながら、手品師は多くこのメカニズムを利用する。或るものを手がかりと思わせておき、客の目線をあらぬ方向に誘導するテクニックに長けている。『邯鄲』(2003)所収。(清水哲男)


October 22102003

 鬣に残る朝露ライオンショー

                           松崎麻美

語は「朝露・露」で秋。サーカスの「ライオンショー」である。サーカスの実物は、田舎での少年時代に一度見たきりだ。村の共同作業場で開かれて、超満員だった。わくわくしながら見ていたわりには、詳細を覚えていない。それまでには見たこともなかった背の低い男が走り回っていたことと、もう一つは綱渡り。和服で足袋姿の女性が、派手な和傘を広げて私の席のほぼ真上を渡って行ったのだから、これはもう身の危険を感じてハラハラドキドキものだった。覚えているのは、それくらいだ。しかし、動物は何も出てこなかったと思う。人間でさえ食うに困っていたときだから、大きな動物を連れて巡業できたわけもない。いや、その前に戦時中、いわゆる猛獣の類はみな薬殺されており、連れて歩こうにも存在しなかったのだ。というわけで、掲句はむろん現代のサーカスを詠んでいる。出てきたライオンの「鬣(たてがみ)」にまだ「朝露」が残っていると感じたのは、もとより作者の主観によるものだ。そしてこのときに、朝露はライオン本来の持つ野性を読者に思い起こさせる。人に飼われ人を喜ばせるための芸を仕込まれたライオンではあるけれど、それでも野性を完全に失ったのではない。そのことを、作者ははかない朝露に湿った鬣に暗示させている。見せ物としての猛獣を描いて、秀逸な一句だ。ああ、サーカスは哀し。なお、句集では全ての句に作者自身による英訳が付されているので、それも引用しておこう。「a lion on a pedestal/his mane still moist/with the morning dew」。日英語俳句集『海の音 The Sound of the Ocean』(2003)所収。(清水哲男)


October 21102003

 舌噛むなど夜食はつねにかなしくて

                           佐野まもる

語は「夜食」で秋。なぜ「かなし」なのかといえば、夜食は本来夜の労働と結びついおり、夜遊びの合間に食べるというものではないからである。夜遅くまで働かないと生活が成り立たない、できればこんな境遇から逃げ出したい。そんな暮しのなかにあっての夜食は、おのれの惨めさを味わうことでもあった。ましてや「舌噛むなど」したら、なおさらに切ない。虚子にも、夜食の本意に添った「面やつれしてがつがつと夜食かな」がある。現代では早朝から夜遅くまで働きづめの人は少なくなったので、本意からはかなり外れた意味で使われるようになった。したがって、楽しい夜食もあるわけだ。京都での学生時代に、銀閣寺から百万遍あたりを流していた屋台のラーメン屋がいた。深夜零時過ぎころから姿を現わす。学生なんて人種は、勉強にせよ麻雀などの遊び事にせよ、宵っ張りが多いので、ずいぶんと繁盛していた。カップラーメンもなかった時代、むろんコンビニもないから、腹の減った連中が切れ目無く食べに来るという人気だった。いや、そのラーメンの美味かったこと。食べ盛りの食欲を割り引いても、そんじょそこらのラーメン屋では味わえない美味だったと思う。醤油ラーメン一本だったが、その後もあんな味に出会ったことはない。いま行くと、百万遍の交差点のところにちょっとした中華料理店がある。そこの社長が、実はあのときの屋台のおじさんだという噂を聞いたことがあるけれど、真偽のほどは明らかではない。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)




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