Mylene Demongeot。ポストBBのキュートな魅力。奇しくも誕生日がバルドーと同じだ。




2003ソスN10ソスソス26ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 26102003

 秋入日かちかち山に差しにけり

                           原田 暹

語は「秋入日(秋の日)」。「差しにけり」が秀逸だ。秋の夕日というと、どうしても釣瓶落しに意識が向きがちだが、秋だって夕日はちゃんと差すのである。日差しは夏場よりもずいぶんと弱々しいが、紅葉した山などに差すと、セピア色の写真ではかなわないような得も言われぬ情趣を醸し出す。「かちかち山」は実在しないから、むろん空想句だ。でも作者は、どこかでの実景から発想したのだろう。折しも秋の入日を正面から受けはじめた小さな山をみて、あっ「かちかち山」みたいだと思ったのだ。この誰もが知っている民話(昔話・お伽噺)は、いまどきの絵本などではマイルドに味付けされているけれど、元来は殺し合いの残酷なストーリーだった。いたずら狸を罠にかけ、狸汁にしようと天井から吊るしておくお爺さんからして残酷だし、巧みにお婆さんを騙して殴り殺し「ばばあ汁」をお爺さんに食べさせる狸の残忍さ。そして、お爺さんになり代わって狸をこらしめる白兎も、正義の味方かもしれないが、執拗にサディスティックに狸をいたぶりまくり、ついには泥舟もろとも沈めてしまうという陰湿さ。「かち栗」欲しさに狸が背負わされた柴に火をつけるべく、兎がかちかちと火打ち石を打っていると、狸が聞く。「かちかちって聞こえるけど、何の音だろうね」。「ここが『かちかち山』だからさ」と、兎。そんな会話の後に、転げ回って狸が苦しんだ山。そう自然に連想した作者は、実景のおそらくは名も無き平凡な山にも、数々の出来事が秘められていると感じたのだろう。このときに、赤い入日は民話の日差しとなっている。『天下』(1998)所収。(清水哲男)


October 25102003

 帰ろかな帰りたいのだ神無月

                           高野 浩

日から「神無月(かんなづき)」に入った。季語としては冬季に分類。もう冬か。この旧暦十月の異称の由来には諸説ある。もっともポピュラーなのは諸国の神々が出雲大社に集まる月というものだが、大昔に「な」は「の」の意だったので、素直に「神の月」と解したほうがよさそうだ。収穫を祝い神に感謝を捧げる月というわけである。句は出雲集合説に拠っており、神々が大移動するのかと思うと、自分もまた久しく帰っていない故郷に帰りたくなったという意味だろう。出雲出身の人なのかもしれない。なんだか北島三郎の歌の文句みたいな句だけれど、駄目押し的な「帰りたいのだ」で、帰心矢の如しの思いがよく伝わってくる。「帰ろかな」の逡巡は生活上の諸般の事情によるものであり、そうした条件を考えなければ、本心は一も二もなく「帰りたいのだ」。この人は、帰っただろうか。さて私事になるが、今夜私は高速バスに乗る。夜通しかけて、山口県の萩市まで行く。明日の中学の同窓会に出るためで、はじまる時間が正午とあっては、バスを使うしか方法がない。今日のうちに新幹線で新山口まで出ておくテもあるけれど、それこそ事情が許さない。一晩中バスに揺られた経験はないが、ま、ヨーロッパあたりに出かけることを思えば同じことだ。むしろ楽だろう。元気なうちに旧友に会っておこうと、逡巡の果てに決めてしまった。私の故郷は、いまは萩市から車だと三十分ほどで行けるようになったそうだ。天気が良ければ、行ってみたいと思う。なにしろ、三十年ぶりの故郷である。天気が悪くても、やっぱり行ってしまうだろうな。金子兜太編『現代俳句歳時記』(1989・千曲秀版社)所載。(清水哲男)


October 24102003

 次世代の飢餓など知らん濁り酒

                           鈴木 明

語は「濁り酒」で秋。「どぶろく」の名でおなじみの酒だが、新米を使うことから秋季とされる。昔から今にいたるも、この酒には法律に違反して製造された密造酒が多い。現行の酒税法はだいぶ緩和されてきたとはいえ、まだまだ気楽に作るわけにはいかない。酒類の製造免許を受けないで酒類を製造した場合は、5年以下の懲役又は50万円以下の罰金に処せられる。逆に簡単に言えば、税金さえちゃんと払えば製造してもよろしいというのが法律の趣旨だ。それを承知で秘かに作って飲むのだから、本来の味に加えて危険な味もするわけである。アメリカの禁酒法時代が良い例だが、飲み助はどんなことをしたって、飲みたいときには飲む。法律もへちまもあるもんか……、と作者が飲んでいるのかどうかは知らねども、これが普通に酒屋で売っている清酒だったとしたら句にはならない。やはり、どこかに危険な香りがあるから「知らぬ」の語勢が強まるのである。作者は私より三歳年上だけれど、ほぼ同世代と言ってよいだろう。子供のころに飢餓を体験した世代だ。「次世代」にこんな思いだけはさせたくないと、がむしゃらに働いてきて、ふっと世の中を見回してればこの始末。どんな始末かは野暮になるから書かないが、ともかく「次世代」には総じて失望させられることのほうが多い。他方では、そんな「次世代」を作ってしまったこちらが悪いのではないかという複雑な思いもある。どこでどう歯車が狂っちまったのか。同じ濁り酒でも、若き日の島崎藤村は「濁り酒濁れる飲みて 草枕しばし慰む」と書いた。が、こっちにはもはやそんな悠長な時間なんてないんだ。もう、どうなったって知らねえゾと、ひとり寂しく吼えながら飲む作者の気持ちはよくわかる。『白-HAKU-』(2003)所収。(清水哲男)




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