Brigitte Bardeau。BBではじまった我が青春の女優シリーズはBBで終わりとします。




2003ソスN10ソスソス31ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 31102003

 露霜の紅さして母残りけり

                           岸田稚魚

語は「露霜(つゆじも)・秋の霜」。晩秋に降りる露が寒さで凍って半ば霜となり、うっすらと白く見える状態を言う。したがって、「水霜(みずしも)」とも。まだ多くは降りないが、往々にして農作物や草木をいためてしまうことがある。しのびよる冬の前触れだ。先日訪れた中国山脈のどてっぱらに位置する故郷の村でも、露霜が降りるようになったと聞いた。句の露霜は実景ではあろうが、白いものが目立ちはじめた母親の頭の様子にもかけてあるのだろう。父親が鬼籍の人となって日は浅く、そして残された母親にも人生の冬が訪れようとしている。それでも毎朝「紅」をさして、身だしなみをととのえることは忘れない。寒い朝、そんな母を見るともなく見ている作者には、この母こそが自分にとっての「紅」とも思われ、明るくも寂しい気持ちに誘われている。生涯病弱であった作者の履歴を知ると、ますます掲句の切なさが高まってくる。彼は、どんなにか母親に励まされ助けられてきたことだろうか。世に母を思う句はたくさんあるけれど、なかでも掲句は季語と人のありようとが無理なく溶け合っていて、深い感銘を覚える。これぞ、俳句ならではの詩表現と言ってよい。さて、早いもので、今日で十月が終わりますね。あと一週間ほどで立冬(十一月八日)。そして翌日九日の衆院選があわただしく過ぎた頃には、東京あたりでもひっそりと露霜が見られるようになり、だんだん寒くなってくるでしょう。みなさま、どうぞ御身お大切に。『筍流し』(1972)所収。(清水哲男)


October 30102003

 秋の夜の漫才消えて拍手消ゆ

                           西東三鬼

後5年目、昭和二十五年(1950年)の作。まだまだ娯楽の乏しい時代だった。作者はラジオで「漫才」を楽しんでいたのだが、それも終わってしまい、拍手もふっと消えていった。この一瞬の寂しさは、ある程度の年齢に達した人でないと理解できないだろう。当時、むろんテレビはないし、ラジオもNHK一局である。終わったからといって、いまのように他局のお笑い番組を探すわけにはいかない。終わったら、それっきりだ。もう少し笑っていたかったのにと、作者はしばしラジオを見つめている。夜の長い季節ならではの、それも当時ならではの哀感だ。このように、俳句はしばしばスナップショット的に、庶民の日常生活の断片を記録しつづけてきた。三鬼句のなかでは目立たない作品ながら、その意味では珍重に値する一句だ。まったくの憶測でしかないのだけれど、このときに三鬼が聞いていた番組は「上方演芸会」だったのではなかろうか。昭和二十四年にはじまったこの番組は、新作台本と公開録音方式をベースにした構成で人気を獲得し、途中で何度か番組名は変わったが、また元の「上方演芸会」に名を戻して現在もつづいている(NHK第1/毎週金曜日21:30〜21:55)。さきごろ亡くなった夢路いとしと喜味こいしの兄弟漫才が全国的に名を馳せたのも、この番組のおかげと言ってもよいくらいだ。折しも彼らの番組デビューは上掲の三鬼句と同じ年であり、ひょっとすると三鬼が聞いていたのは新進気鋭の「いとしこいし」コンビだったのかもしれない。そう想像すると、いとしの死去のこともあり、そぞろ秋風が身にしみる思いになる。『西東三鬼句集』(2003・芸林21世紀文庫)所収。(清水哲男)


October 29102003

 斬られ役また出て秋を惜しみけり

                           泉田秋硯

語は「秋惜しむ」。山口県の萩市で開かれた中学の同窓会に出席した後で、三十年ぶりに故郷(山口県阿武郡むつみ村)を訪れてみた。快晴のなかの村の印象はいずれ書くとして、村を離れる前に友人宅に立ち寄って二時間ばかり話をした。私がいろいろ昔の思い出を確認する恰好の話のなかで、秋祭のことを尋ねたら、いまでも昔と同じ形式で続けられているという。奉納されるメインイベントのお神楽も、伝統を守って昔ながらに演じられているようだ。ただ子供の私には神楽はたいして面白いものではなく、その後に行われる村芝居が何よりの楽しみだったのだけれど、さすがにこちらは途絶えてしまっていた。集落単位で何年かごとの交代制で一座をこしらえて、主に国定忠次や石川五右衛門などの時代劇を上演したものだ。これが、いろいろな意味で面白かった。日頃無口な近所のおじさんが舞台に上がって「絶景かな、絶景かな」なんて叫んでいたりして、大いにたまげたこともある。句は、そんな芝居の事情を詠んでいる。なにしろ出演者が少ないので、ちょっとしか出ない「斬られ役」は、すぐに別のシーンで別の役を演じざるを得ないわけだ。ついさっき情けなくもあっさり斬られて引っ込んだ男が、また出てきて、今度は神妙な顔つきで月を見上げたりして行く秋を惜しんでいる図である。なんとなく妙な感じがして可笑しいのだが、一方ではどことなく哀しい。村芝居には、素人ならではの不思議な魅力がある。むろん作者の力点も、この不思議な味にかけられているのだろう。『宝塚より』(1999)所収。(清水哲男)




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