November 032003
蜘蛛の巣に頭を突込めり文化の日
神生彩史
戦後も間もないころの句。こういうことは、とくに田舎でなくても起きた。そこらじゅうに、蜘蛛が巣を張っていた。「頭を突込」むと厄介だ。髪の毛がべたべたになってしまい、洗髪する破目になる。「文化の日」を祝おうだなんて言うけれど、蜘蛛の巣だらけのどこが文化的なんだよ、この国は。と、舌打ちしているのだろう。作者の意識のなかには、明らかに新しく制定された祝日への反感がある。ご存知のように、戦前の今日は明治節。明治天皇の誕生日を祝う日だった。♪アジアの東、日出ずるところ、ひじり(聖)の君のあらはれまして、古きあめつち、とざせるきり(霧)を、大御光(おおみひかり)にくまなくはらひ、……という、今日の某国も真っ青な式歌をみんなが歌った。それが敗戦となって、民主主義国家には最もふさわしくない祝日の一つとなり、急遽十一月三日の日付には何の関係もない「『文化』の日」と読み替えることにしたわけだ。関係がないのだから、別に今日を祝日に制定する必然性もないのだけれど、そこはそれ、なんとか明治節の痕跡だけでもとどめておきたいという守旧派の力が働いたに違いない。事の是非は置くとして、戦前の祝日には制定の根拠や必然性があった。ほとんどが神道や皇室行事などに拠ってはいたが、それなりに納得はいった。ところが、戦後は根拠必然性のない焦点ボケの祝日が多くて、祝う気にもなれない。単なる休日と思う人が大半だろう。今月の「勤労感謝の日」などは収穫を神に感謝する「新嘗祭(にいなめさい)」の読み替えだが、焦点ボケの代表格だ。第一、感謝の主体すらがはっきりしない。こんなに漠然とした祝日の多い国は、日本だけだろうな。『俳句歳時記・冬の部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)
November 272004
訣れきて烈火をはさむ火箸かな
神生彩史
歳時記編纂の立場だけから言うと、こういう句は実に困ってしまう。季語はないので無季句にははしておくが、それでよいのかという気持ちが吹っ切れない。どう考えても、この句の季節は冬だからだ。それはともかく、激しい気合いのこもった句である。「訣(わか)れきて」が「別れきて」ではないところに注目しよう。「訣」は「永訣」などというときの「訣」だから、作者は誰かと決別してきたことがうかがえる。憤然として帰宅し、その興奮が醒めやらぬままに、囲炉裏か竃か火鉢あたりの「烈火」を「火箸」で挟んでいる。「火箸かな」の「かな」は、火箸をつかんで怒りにぶるぶると震えている作者の「手元」を想像させ、俳句ならではの表現と言えるだろう。真っ赤に熾った炭火は顔面を焼くほどに強烈だし、普段ならおっかなびっくり慎重に火箸で挟んで移し替えたりするわけだが、このときの作者はがっちりと正面から烈火に向き合っている。訣れの際の、それこそ烈火のごとき感情を引きずっているので、これぞ人の勢いというものなのだ。たぶんフィクションだとは思うけれど、激しい怒りのありようを描いて卓抜である。神生彩史はかつての新興俳句の旗手的存在であり、その新鮮な詠みぶりは同時代の多くの俳人に影響を与えた。もっと広い世界で評価されてよい「詩人」である。『深淵』(1952)所収。(清水哲男)
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