昼から夜にかけて松山で会議。疲れるのですよね、これが。一日が早く過ぎ去るように。




2003ソスN11ソスソス7ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 07112003

 成り行きに任す暮しの返り花

                           鯨井孝一

語は「返り花・帰り花」で初冬。かえり咲きの花。暖かい小春日和がつづくと、梅や桜、桃の花が咲くことがある。狂い花とも。岡本敬三の小説『根府川へ』(筑摩書房)を読んだあとだけに、この句には身につまされる。会社にリストラされ、妻には別れられ、「成り行きに任す暮し」を余儀なくされている初老の男の物語だ。彼は一年中、寒い季節に生きているようなものなのだ。しかし、そんな彼にも、たまにはポッと返り花が咲く。目立たないささやかな花ではあるけれど、社会的にも経済的にも零落した者でなければ見られない花が咲くのである。その花は、羨ましくなるくらいに美しく味わい深い。何かをあきらめた人間には、あきらめた分だけ、それまでには気づかなかったきれいなものが見えるのだろう。句の作者は零落者ではないだろうが、そういうことを言っている。小説に戻れば、こんな場面がある。久しぶりに静岡の根府川から上京した高齢の叔父と、主人公は神田で酒を呑む。彼のポケットには全財産の1500円しかない。飲んでいるうちに、叔父も1000円しか持っていないことがわかる。どんどん注文する叔父にはらはらしながら、さて、どうしたものか……。叔父の機転でその店からは無事に脱出、つまり飲み逃げをするわけだが、お茶の水駅での別れ際に、叔父は「うっかりしていた」と白い封筒をさしだした。生きていくことはほんのちょっとしたペテンだ、と言い添えながら……。開けてみると、その薄い封筒には指の切れそうな一万円札が五枚入っていた。あわてて彼はさきほどの店に取って返し、勘定を払おうとするが、女将はもう済んでいるという。たとえば、これが成り行き任せの暮しに咲いた返り花。そして、この金を返しに主人公が叔父を訪ねて根府川へ行くのも、またもう一つの返り花だ。著者の岡本敬三君は、実は私の若い友人です。読んでやってください。面白いこと受け合い、ペーソス溢れるいぶし銀のような都会小説です。『現代俳句年鑑』(2003・現代俳句協会)所載。(清水哲男)


November 06112003

 柿落ちて犬吠ゆる奈良の横町かな

                           正岡子規

山に行くので、子規が読みたくなって読んでいる。松山どころか、四国に渡るのは生まれてはじめて。仕事があるとはいえ、楽しみだ。例によって飛行機ではなく、地べたを這ってゆくので、三鷹からおよそ七時間ほどかかる。先の萩行きの深夜バスに比べれば、ラクなものである。揚句は、しかし松山ならぬ奈良での即吟だ。明治半ばころの奈良の横町はこんなだったよと、セピア色に変色した写真を見せられているようだ。名句なんて言えないけれど、いまの私にはこんな何でもないような句のほうが心地よい。張り切った句には疲れるし、技巧に優れた句にもすぐに飽きてしまう。非凡なる凡人ではないが、凡なる凡句にこそ非凡を感じて癒される。まったく、俳句ってやつは厄介だ。我が故郷の「むつみ村」がいまだにそうであるように、昔の奈良の横町あたりでも、柿などはなるにまかせ、落ちるにまかせていたのだろう。熟したヤツがぼたっと落ちると、びっくりした犬が一声か二声吠えるくらいだ。いまどきの犬は、柿が落ちたくらいでは吠えなくなったような気がする。実に、犬は犬らしくなくなった。あるいはそんな直接的な因果関係き何ももなくて、柿は柿として勝手に落ち、犬は犬として勝手に吠えているのかもしれない。どっちだっていいのだが、往時ののんびりした古都・奈良の雰囲気が、かくやとばかりによく伝わってくる。柿が大好きだった子規には、「もったいない」と少々こたえる場面ではあったろうが、その後でちゃんと「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」と詠んでいるから、心配はいらない。子規の柿の句のなかに「温泉の町を取り巻く柿の小山哉」もある。「温泉(ゆ)の町」は道後だ。ちょっくら小山の柿の様子も見てきますね。『子規句集』(1993・岩波文庫)所収。(清水哲男)


November 05112003

 啄木鳥に俤も世もとどまらず

                           加藤楸邨

語は「啄木鳥(きつつき)」で秋。くちばしで樹の幹をつつき、樹皮の下や樹芯にいる虫を食べる。日本にはコゲラ、アカゲラなど十種類ほどが棲息しているそうだが、私が子供のときによく見かけたのは何という種類だったのか。ちっぽけで敏捷だったが、よく漫画に出てくるような愛嬌は感じられなかった。汚ねえ奴だなくらいに思っていたので、我ら悪童連もつかまえようという気すら起こさなかった。タラララララと樹を打つ音は時に騒々しいほどで、「うるさいっ」とばかりに石を投げつけたりしたが、むろん命中するわけもない。なんという風流心の欠如。可哀想なことをしたものだ。作者は大人だし風流も解しているので、そんなことはしない。昔に変わらぬ風景のなかで、相変わらずのせわしなさで樹を打つ音を聞きながら、昔とはすっかり変わってしまった人の世を思っている。この風景のなかにいた人たちの多くはこの世を去り、世の仕組みも大きな変化をとげた。俤(おもかげ)も世も、ついにとどまることはないのだ。変わらぬものと変わりゆくものとの対比。よくある感慨ではあろうが、変わらぬものとして、山河などではなく啄木鳥の音をもってきたところが手柄だ。心に沁みる。そういえば、今度の故郷行では啄木鳥の音を聞くことがなかった。昔はあれほどいたのに、やはり近年では林業も盛んになった土地ゆえ、樹々が伐採されるたびに棲む場所を失っていったのだろう。すなわち、俤も世も、啄木鳥までもがとどまってはいなかった。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)




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