比較的考えの近い政党が候補者を立てなかったので、私の票は比例区に反映させたのみ。




2003ソスN11ソスソス10ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 10112003

 愚陀仏は主人の名也冬籠

                           夏目漱石

国松山への短い旅から戻ってきました。何をおいても行きたかった道後の子規記念博物館を見ることができ、満足しています。手紙や原稿、書籍などが中心の展示ですから、「見る」というよりも「読む」博物館ですね。そんななかで、唯一と言ってよい見るための展示が、三階に復元された「愚陀仏庵」一階の部屋の模様です。愚陀仏は漱石の別名で、それをたわむれにそのまま下宿先の家の名前とし、ここに病気療養で帰省した子規が転がり込んだことから、記念館に復元されたというわけです。子規が一階の二部屋を使い、漱石は二階。部屋には、火鉢なんかも置いてありました。ちょうど立冬の日で、なかなか芸がこまかい。と思ったけれど、年中置いてあるのかもしれません。撮影禁止なので、写真を撮れなかったのが残念なり。掲句は俳句的にどうのこうのというものではありませんが、記念に載せておくことにしました。はじめて読んだときに「主人」は大家さんのことかと思い、粋な人もいたものだと感心した覚えがありますが、というようなわけで漱石自身のことなのでした。松山を観光地として見たときに、宣伝に寄与しているのは子規はむろんですが、しかし圧倒的には漱石という印象でしたね。漱石の『坊ちゃん』が松山を全国的に知らしめたと言っても、過言ではないでしょう。市内には坊ちゃん列車が走り、道後や松山城などの観光スポットには坊ちゃんやマドンナ、あるいは赤シャツに扮装したガイドが立ち、土産には坊ちゃん団子をはじめ漱石にちなんだものがいろいろとありました。小説の威力、恐るべし。そんな感を深くした駆け足旅行でした。仕事抜きで、もう一度ゆっくりと訪ねてみたい街です。平井照敏編『俳枕・西日本』(1991・河出文庫)所載。(清水哲男)


November 09112003

 さやけしやまためぐりあふ山のいろ

                           かもめ

語は「さやけし」で秋。立冬は過ぎたが、これからしばらくの間、秋と冬の句が混在していくことになる。実際の季節感が秋のようであったり、冬のようであったりと、グラデーション的に寒い季節に入っていく。俳人によっては、もう秋の季語は使わないという人もいると聞くが、そこまで暦に義理を立てる必要はないだろう。是々非々で行く。掲句に目がとまったのは、最近とみに私も、同じような感慨を覚えるようになったからだ。昨年と同じ「山のいろ」にまためぐりあえたというだけで、心の澄む思いがする。まさに「さやけし」である。この心の裏側には、あと何度くらい同じ色にめぐりあえるだろうかという思いがある。いまアテネ五輪に向けての予選がいろいろ行われているが、アテネはともかく、次の北京を見られるだろうか。下世話に言うと、そういう思いと重なる。作者の年齢は知らないけれど、少なくとも若い人ではあるまい。また同じ作者の他の句を見ると「案山子さま吾は一人で立てませぬ」「秋冷の片足で取る新聞紙」などがある。歩行が不自由で、多く寝たままの生活を余儀なくされている方のようだ。だとしたら、なおさらに「まためぐりあふ山のいろ」が格別に身に沁み入ってくる。「案山子さま」という呼びかけ方にも、単なる親しみを越えて、なにか敬意を示したまなざしが感じられる。我が身と同じように人の手を借りて立つ案山子ではあるが、私よりもすっくと凛々しく立っておられる……。御身御大切に。WebPage「きっこのハイヒール」(2003年11月4日付)所載。(清水哲男)


November 08112003

 地玉子のぶつかけご飯今朝の冬

                           笠 政人

語は「今朝の冬」、立冬のことだ。雪の便りもちらほらと聞こえてくる。まだ東京あたりではそんなでもないが、もう名実ともに冬に入っている地方もあるだろう。長くて厳しい季節のはじまりである。作者は、そんな寒い地方の人だろうか。ほかほかのご飯に玉子をぶっかけて、勢い良く掻き込んで食べている。さあ「冬よ、やってこい」と、身構えている。わざわざ「地玉子」と玉子に「地」をかぶせたのは、新鮮で栄養価の高い玉子をイメージさせることで、句の勢いを増すためだろう。単に玉子と言うよりも、よほど迫力が出る。すぐに連想したのは、高村光太郎の詩集『道程』に収められている「冬が来た」だった。昔、小学校の教室で習った。「きっぱりと冬が来た/八つ手の白い花も消え/公孫樹の木も箒になった」というのだから、季節的にはもう少し寒くなってからの詩だ。最後の二連は、こうなっている。「冬よ/僕に来い、僕に来い/僕は冬の力、冬は僕の餌食だ//しみ透れ、つきぬけ/火事を出せ、雪で埋めろ/刃物のような冬が来た」。こちらも相当な迫力で、子供のときにも圧倒された。掲句の作者にしても光太郎にしても、とにかく若くて元気だ。若くて元気でなければ、こういう詩は書けない。そこへいくと今の私などは、冬と聞くだけでへなへなとなりそうだ。あ〜あと、溜め息の一つもついてしまう。これではならじ。句の作者にならって、今朝はいっちょう、ご飯に玉子をぶっかけて食うことにしようかな。今日、立冬。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)




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