毎朝4時過ぎには起きる。二十数年来の習慣だが、さすがに冬場は寒いし暗いしで辛い。




2003ソスN11ソスソス13ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 13112003

 米犇きたちまち狭し暖房車

                           高島 茂

語は「暖房」で、もちろん冬。昨日の句と同じように、戦後の混乱期の作である。なぜ「暖房車」で「米(こめ)」が「犇(ひしめ)く」のか。今となっては、当時の世相などを含めた若干の解説が必要だろう。この句を目にしたときに、私はすぐに天野忠の詩「米」を思い出した。そして、久しぶりに詩集を取りだして読んでみた。天野さんにしては、珍しく社会への怒りをストレートにぶつけている。何度読んでも粛然とさせられ、感動する詩だ。今日は私が下手な解説を書きつけるよりも、この詩にすべてをまかせることにしたい。詩人が怒っているのは、列車内に踏み込んでヤミ米を摘発していった官憲に対してである。「/」は改行を、「//」は改連を示す。「この/雨に濡れた鉄道線路に/散らばった米を拾ってくれたまえ/これはバクダンといわれて/汽車の窓から駅近くになって放り出された米袋だ//その米袋からこぼれ出た米だ/このレールの上に レールの傍に/雨に打たれ 散らばった米を拾ってくれたまえ/そしてさっき汽車の外へ 荒々しく/曳かれていったかつぎやの女を連れてきてくれたまえ//どうして夫が戦争に引き出され 殺され/どうして貯えもなく残された子供らを育て/どうして命をつないできたかを たずねてくれたまえ/そしてその子供らは/こんな白い米を腹一杯喰ったことがあったかどうかを/たずねてくれたまえ/自分に恥じないしずかな言葉でたずねてくれたまえ/雨と泥の中でじっとひかっている/このむざんに散らばったものは/愚直で貧乏な日本の百姓の辛抱がこしらえた米だ//この美しい米を拾ってくれたまえ/何も云わず/一粒ずつ拾ってくれたまえ」。……むろん掲句の犇く米も、無事に人の口に入ったかどうかはわからない。不幸な時代だった。『俳句歳時記・冬の部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)


November 12112003

 美容室せまくてクリスマスツリー

                           下田實花

が早いというのか、商魂逞しいというのか。十一月に入った途端に、東京新宿のデパートあたりではクリスマス向きのイルミネーションを飾りつけ、店内では歳暮コーナーを設けるという始末。いや、新宿ばかりじゃない。先日訪ねた四国の松山のホテルでも、なんとなくそれらしき豆電球が明滅していた。古い歳時記をパラパラやっていたら掲句に出会ったのだが、戦後間もなくの句だ。それでなくても狭い美容室にツリーが飾られ、作者は大いに迷惑している。敗戦までは、クリスマスを楽しむ習慣などなかったのだから無理もない。でも美容室は商売柄、時流に乗り遅れてはならじと、狭くてもなんでも無理やりにツリーをセットしたわけだ。こういう句にインパクトを感じる読者が多かった雰囲気を、いまの若い人は理解できないだろう。まったくあのころは、雨後の竹の子のように、急にあちこちにツリーが飾られるようになったっけ。当時の国鉄(現JR)の各駅にもツリーが立ち、国会で問題になったこともある。国営企業が、一つの宗教に肩入れし宣伝するとはけしからん。新憲法が保障する信教の自由を何と心得るのか。まだ、閣僚が靖国神社に参拝しようとする気すらなかった時代の話である。掲句を載せた歳時記の解説が面白い。一応クリスマスやツリーを説明した後に、こうある。「戦後は異教徒の日本人も、大騒ぎするやうになった。デパートや商店、カフェ・キャバレーなども聖樹を飾る」と、句の作者と同じようにいささか苦々しげである。12月25日の朝刊には、必ず銀座あたりで三角帽子をかぶって大騒ぎしている男たちの写真が載ったものだった。そのころは大人の男の異教徒だけが騒いでいたのが、いつしか老若男女みんなのお祭りと化してきたのは、いかなる要因によるものなのだろうか。かくいう私もクリスマスのデコレーションの類は大好きなほうだから、あまり詮索する気にはならないけれど。『俳句歳時記・冬の部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)


November 11112003

 風の服つくる北風役の子に

                           富田敏子

語は「北風」で冬。学芸会(と、いまでも言うのかしらん)で北風役を演じることになった子供のために、「風の服」をつくってやっている。どんな内容の劇かは、句からはわからないが、あまり良い役ではなさそうだ。たとえばイソップ物語にある「北風と太陽」の北風のように、どちらかといえば憎まれ役なのだろう。旅人の上衣をどちらがちゃんと脱がすことができるか、という力比べの物語。この話ならば、風の服の色は太陽の赤に対比させて青色にするのだろうが、さて、全体の形はどんなふうにするのか。たぶん西洋の悪魔のファッションにも似て、とげとげしい印象に仕上げるのではなかろうかか。もっと良い役だったらなどと思いながらも、それでもできるだけ舞台映えがするようにと、ていねいに縫っている。そんな事実だけを淡々と詠んでいるだけなのだけれど、いろいろに親心が想像され連想されて飽きが来ない。それに実際につくった体験がないと、虚構ではとても詠めない強さもある。なんということもない句のようだが、作者は俳句の要諦をきちんと心得ている人だ。読者への句のゆだね方をよく承知している。風の服で思い出したが、学芸会で風の役をやった友人がいる。こちらは和風の風の役で、大きな風の袋をかかえて、陰の先生の合図で下手から上手までを一気に舞台を駆け抜けるだけ。演目はたしか『風の又三郎』のはずだったと言うのだけれど、はてな。たしかにあの物語は風が命みたいなものだけれど、いったい彼はどんな場面で飛び出していったのだろう。そして服と袋は、やはり句のように母親につくってもらったのだろうか。今度会ったら、掲句のことを教えて聞いてみよう。『ものくろうむ』(2003)所収。(清水哲男)




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