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November 13112003

 米犇きたちまち狭し暖房車

                           高島 茂

語は「暖房」で、もちろん冬。昨日の句と同じように、戦後の混乱期の作である。なぜ「暖房車」で「米(こめ)」が「犇(ひしめ)く」のか。今となっては、当時の世相などを含めた若干の解説が必要だろう。この句を目にしたときに、私はすぐに天野忠の詩「米」を思い出した。そして、久しぶりに詩集を取りだして読んでみた。天野さんにしては、珍しく社会への怒りをストレートにぶつけている。何度読んでも粛然とさせられ、感動する詩だ。今日は私が下手な解説を書きつけるよりも、この詩にすべてをまかせることにしたい。詩人が怒っているのは、列車内に踏み込んでヤミ米を摘発していった官憲に対してである。「/」は改行を、「//」は改連を示す。「この/雨に濡れた鉄道線路に/散らばった米を拾ってくれたまえ/これはバクダンといわれて/汽車の窓から駅近くになって放り出された米袋だ//その米袋からこぼれ出た米だ/このレールの上に レールの傍に/雨に打たれ 散らばった米を拾ってくれたまえ/そしてさっき汽車の外へ 荒々しく/曳かれていったかつぎやの女を連れてきてくれたまえ//どうして夫が戦争に引き出され 殺され/どうして貯えもなく残された子供らを育て/どうして命をつないできたかを たずねてくれたまえ/そしてその子供らは/こんな白い米を腹一杯喰ったことがあったかどうかを/たずねてくれたまえ/自分に恥じないしずかな言葉でたずねてくれたまえ/雨と泥の中でじっとひかっている/このむざんに散らばったものは/愚直で貧乏な日本の百姓の辛抱がこしらえた米だ//この美しい米を拾ってくれたまえ/何も云わず/一粒ずつ拾ってくれたまえ」。……むろん掲句の犇く米も、無事に人の口に入ったかどうかはわからない。不幸な時代だった。『俳句歳時記・冬の部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)


February 0322005

 豆撒く声いくとせわれら家もたぬ

                           高島 茂

語は「豆撒(まめまき)」で冬。間借り生活なのだろう。私にも体験があるが、隣室と薄い壁や狭い廊下を隔てての暮らしは、とりわけて音を立てることに気を使う。ひそやかに暮らさねばならぬ。したがって、いくら節分の夜だからといっても、「鬼は外」など大声を出すわけにはいかないのだ。それでも用意した豆を子供らとともにそっと撒いて、小声でつぶやくように「福は内」と言う。年に一度の大声を、張り上げることもままならない「われら」は、家を持たずにもう「いくとせ」になるだろうか。豆撒きの日ならではの感慨である。しかし、最近では豆撒きの風習もすたれてきたようだ。撒いた後の掃除が面倒という主婦の談話を、何日か前の新聞で目にした。同じ新聞に、代わって流行の兆しにあるのが「恵方巻き」だとあった。元来が大阪の風習らしいが、節分の夜に家族で恵方(今年は西南西)を向き、太巻きの寿司を黙って一気に丸かじりにすると幸運が訪れるという。その昔に大阪の海苔屋がまず花街に仕掛けたといわれ、切らずに丸かじりにするのは男女の縁を「切らない」ようにとの縁かつぎからだそうだ。バレンタインデーにチョコレートを仕掛けた業界の企みと同じ流れだけれど、実質的な夕飯にもなるし、声を出さない内向性も現代人の好みに合いそうだから、ブレークしそうな気がする。そうなると、あいかわらず「鬼は外」とやるのは、テレビの中の「サザエさん」一家くらいになってしまうのかも。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


October 18102009

 手榴弾つめたし葡萄てのひらに

                           高島 茂

句を読み慣れている人には容易に理解できる内容も、めったに句を読む機会のないものには、短すぎるがゆえに何を表現しているのか正確にはわからないことがあります。たとえば本日の句では、てのひらに載っているのは手榴弾でしょうか、あるいは葡萄でしょうか。どちらかがどちらかの比喩として使われていると思われるものの、断定ができません。間違いなくわかるのは、「つめたし」が手榴弾にも葡萄にも感じられるということ。どちらにしても双方の、小さな突起を集めた形と、個々の表面に感じる冷たさが、作者の複雑で繊細な心情をしっとりと表しています。ほどよい大きさの、それなりの重さを手に持つことは、なぜか気持ちのよいものです。生き物ではなく、物に触れることによってしか保てない心というものが、たしかにあります。手榴弾、葡萄という魅力的に字画の多い漢字を、「つめたし」「てのひらに」のひらがながやさしく囲っています。じっと冷え切った物に対峙するようにして、柔らかな皮膚をもった私たちが、句の中に置かれています。『日本名句集成』(1992・學燈社)所載。(松下育男)


February 0522010

 散り敷きて雪に蒼みし霰かな

                           高島 茂

句の風景描写を服装のコーディネイトのごとく思うことがよくある。Yシャツは何色、上着は、ズボンは。ベルトは靴の色に合わせ、全体が暗い感じの色合いならネクタイは思い切って赤で行こうとか。いや、最近はみんな赤だから俺は緑でいこうとか。雪の上の霰を描くのは同系色の合わせ方だ。作者は白の上に白を置いてその二色を識別させる。霰の方にやや蒼い色をつけたのだ。見たこと、感じたことの経験も俳句と服は似ている。持っているものしか使えないから、それを用いるしかないが、その中でのセンスが問われるのである。『ぼるが』(2000)所収。(今井 聖)


August 0782013

 あくせく生きて八月われら爆死せり

                           高島 茂

和二十年の昨日、広島市に原爆が投下され、三日後の九日に長崎市に原爆が投下されたことは、改めて言うまでもない。つづく十五日は敗戦日である。二つの原爆忌と敗戦忌が日本の八月には集中している。掲句の「八月」とはそれらを意味していて、二つの「爆死」のみならず、さらに広く太平洋戦争での「戦死」もそこにこめられているだろう。二つの「原爆」の深い傷は今もって癒えることはない。三・一一以降セシウムの脅威はふくらむばかりである。それどころか、今まさに「安全よりお金を優先させる」という、愚かしい政治と企業の論理が白昼堂々とまかり通っている。「あくせく生き」た結果がこのザマなのであり、「爆死」の脅威のなかで、フクシマのみならずニッポンじゅうの市民が、闇のなかを右往左往させられている。そのことをあっさり過去形にしてしまう権利は誰にもない。戦中戦後を「あくせく生き」た市民たちにとって、死を逃がれたとはいえ「爆死」状態に近い日々だったということ。茂は新宿西口の焼鳥屋「ぼるが」の主人だった。私も若いころ足繁くかよった。ボリウムのあるうまい焼鳥だった。主人と口をきくほど親しくはなかったが、俳人であることは知っていた。壁に蔦がからんだ馴染みの古い建物そのままに営業していることを近年知って驚き、私は一句「秋風やむかしぼるがといふ酒場」と作った。かつて草田男や波郷もかよったという。文学・芸術関係の客が多く独特の雰囲気があった。茂の句は他に「ギター弾くも聴くも店員終戦日」がある。「太陽」(1980年4月号)所載。(八木忠栄)


February 1022016

 子も葱も容れて膨るる雪マント

                           高島 茂

どもを背負い、葱を買って、雪のなかを帰るお母さんのふくれたマント姿である。雪の降る寒い景色のはずだけれど、「子」「葱」「膨るる」で、むしろほのかにやさしい光景として感じられないだろうか。昔の雪国ではよく目にしたものである。近年のメディアによるうるさい大雪報道は、雪害を前面に強調するばかりで、ギスギスしていてかなわない。大雪を嘆く気持ちは理解できないではないが、現代人は雪に対しても暑さに対しても、かくも自分本位で傲慢になってしまったか――と嘆かわしい。加藤楸邨にこんな句がある、「粉雪ふるマントの子等のまはりかな」。こういう視点。新宿西口にある焼鳥屋「ぼるが」には、若いころよく通った。文学青年や物書きがよく集まっていた。当時、入口で焼鳥を焼いていた主人が高島茂。俳人であることはうすうす耳にしていたが、ただ「へえー」てなものであった。焼鳥は絶品だった。主人は今はもちろん代わったが、お店は健在である。私は近年足が遠のいてしまった。ネットを開くと、「昭和レトロな世界にタイムスリップしたかのよう」という書きこみがある。当時からそんな雰囲気が濃厚だった。茂には他に「飯どきは飯食ひにくる冬仏」がある。平井照敏編『新歳時記・冬』(1996)所収。(八木忠栄)




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