週末には早くも忘年会。名目はどうでもいいようなものの、忘年会だと出席率が高い。




2003ソスN11ソスソス17ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 17112003

 枯葉踏む乳母車から降ろされて

                           中田尚子

ちよち歩きの幼児が「乳母車から降ろされて」、「枯葉」の上に立った。ただそれだけの情景だが、その様子を見た途端に、作者が赤ん坊の気持ちに入っているところがミソだ。おそらく生まれてはじめての体験であるはずで、どんな気持ちがしているのか。踏んで歩くと、普通の道とは違った音がする。どんなふうに聞こえているのだろうか。と、そんなに理屈っぽく考えているわけではないけれど、咄嗟に自分が赤ちゃんになった感じがして、なんとなく足の裏がこそばゆくさえ思えてくるのだ。こういう気分は、他の場面でも日常的によく起きる。誰かが転ぶのを目撃して、「痛いっ」と感じたりするのと共通する心理状態だろう。そういうことがあるから、掲句は「それがどうしたの」ということにはならないわけだ。赤ん坊に対する作者の優しいまなざしが、ちゃんと生きてくるのである。「乳母車」はたぶん、折り畳み式のそれではなくて、昔ながらのボックス型のものだろう。最近はあまり見かけなくなったが、狭い道路事情や建物に階段が多くなったせいだ。でもここでは、小回りの利くバギーの類だと、乗っている赤ん坊の目が地面に近すぎて、句のインパクトが薄れてしまう。やはり、赤ん坊が急に別世界に降ろされるのでなければ……。余談ながら、アメリカ大リーグ「マリナーズ」の本拠地球場には、折り畳み式でない乳母車を預かってくれるシートがネット裏に二席用意されている。揺り籠時代から野球漬けになれる環境が整っているというわけで、さすがに本場のサービスは違う。『主審の笛』(2003)所収。(清水哲男)


November 16112003

 外套の釦手ぐさにたゞならぬ世

                           中村草田男

語は「外套(がいとう)」で冬。いまで言う防寒用の「(オーバー)コート」であるが、昔のそれは色は黒などの暗色で布地も厚く、現在のような軽快感はまったくなかった。宮沢賢治が花巻農学校付近で下うつむいている有名な写真があるけれど、あれがこの季語にぴったりくる外套姿である。さぞや、肩にずしりと重かったろう。そんなずっしりとした外套の大きな「釦(ぼたん)」を無意識にもてあそぶ(手ぐさ)ようにして、作者は「たゞならぬ世」の前で立ちつくしている。その如何ともなしがたい流れに、思いをいたしている。大いに世を憂えているというのではなく、かといって傍観しているというのでもない。呆然というのともちょっと違って、結局は時の勢いに流されてゆくしかない無力感の漂う自分に苛立ちを感じている。寒さも寒し、外套のなかの身をなお縮めるようにしながら、手袋の手で釦をまさぐっている作者の肖像が浮かんでくる。暗澹と時代を見つめる孤独な姿だ。ところで外套と言えば、ドストエフスキーをして「我々はみな、ゴーゴリの『外套』から出てきた」と言わしめたロシア文学史上記念碑的な小説がある。うだつの上がらぬ小官吏が、年収の四分の一をつぎ込むという一世一代の奮発をして、外套を新調する物語。哀れなことに、彼は仕立て下ろしを着たその日の夜に、路上強盗にあい外套を剥ぎ取られてしまう。このいささか冗舌な作品の核となっているのは、ストーリーよりも時代の空気の描写だろう。厳冬のペテルブルグの街や行き交う人々の様子などに、盛りを過ぎつつあったロシア帝国の運命が明滅している。「たゞならぬ世」を鋭敏に察知してきたのは、いつだって芸術だった。『俳句歳時記・冬の部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)


November 15112003

 事件あり記者闇汁の席外す

                           宮武章之

語は「闇汁(やみじる)」で冬。各自が思いつくままの食材を持ち寄り、暗くした部屋で鍋で煮て食べる。美味いというよりも、何が入っているかわからないスリルを味わう鍋だ。そんな楽しい集いの最中に、ひとり席を外す新聞記者。なんだ、もう帰っちゃうのか。でも「事件あり」ではやむを得ないなと、仲間たちも納得する。句の出来としては「事件あり」にもう一工夫欲しいところだが、その場の雰囲気はよく伝わってくる。当人はもちろん、仲間たちもちょっぴり名残惜しいという空気……。だが、こういうときの新聞記者の気持ちの切り替えは実に早い。彼は部屋を出れば、いや席を立ったときに、もう切り替えができてしまう。新聞記者の友人知己が多いので、このことには昔から感心してきた。週刊誌の記者や放送記者などでも、およそ「記者」と名のつく職業の人たちは、気分や頭の切り替えが早くないと勤まらないのだ。いつまでも前のことが尾を引くようでは、仕事にならない。その昔、テレビに『事件記者』という人気ドラマがあったけれど、ストーリーとは別に、私は彼らの切り替えの早さに見惚れていた。社会に出ても、とてもあんなふうにはいかないだろうなと、愚図な少年は憧れのまなざしで眺めていた。どんな職業に就いても、誰もが知らず知らずのうちにその世界の色に染まってゆく。医者は医者らしく、教師は教師らしく、銀行員は銀行員らしくなる。酒場などで見知らぬ人と隣り合っても、およそその人の職業の見当はつく。「らしくない」人には、なかなかお目にかかれない。休日にラフな恰好はしていても、たいていどこかで「らしさ」が出るものなのだ。放送の世界が長かった私にも、きっと「らしさ」があるのだろう。だが、当人には自分の「らしさ」がよくわからない。そのあたりが面白いところだ。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)




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