近所の煙草屋さんから大きな花梨の実を貰った。良い香り。お裾分けの風習は嬉しいな。




2003ソスN11ソスソス25ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 25112003

 ジャズ現つ紙屑を燃す霜の上

                           古沢太穂

戦直後の句。寒いので、表で「紙屑」を燃やして手を焙っている。小さな焚火をしているわけだが、当時の都会では、そう簡単に燃やせるものはそこらにはなかった。なにしろ日頃の煮炊きのための薪にも事欠いて、板塀などはもとより天井板や卓袱台まで燃やしていた時代のことである。わずかな紙屑くらいしか、手近に燃やせるものがなかったのだ。そんな侘しい焚火に縮こまって手をかざしていると、どこからか「ジャズ」が聞こえてきた。戦争中、ジャズは敵性音楽として演奏することはもとより聴くことも禁じられていたので、作者には一瞬空耳かという疑念も湧いただろう。が、耳を澄ましてみると、たしかに正真正銘のジャズが「現(うつ)つ」に流れてくる。ラジオからか、それとも誰かがレコードを聴いているのか。もう二度と聞くことはないだろうと思っていた音楽が、こうして町を当たり前のように流れてくるなどは、なんだか夢を見ているような気がする。あえて「現つ」といかめしい文語を使ったのは、そのあたりのニュアンスを強調しておきたかったからだろう。それにしても、ジャズを聴く自由は保障されたけれども、それを十全に享受できる生活は保障されていない。句は、この明暗の対比というよりも、この明暗が入り交じっている混沌のゆえに、なおさら希望が見えてこない時代の「現つ」の相を静かに詠んでいる。このときに「霜」は、単なる自然現象を越えて、庶民の暮らしそのものを象徴しているかのようだ。『古沢太穂句集』(1955)所収。(清水哲男)


November 24112003

 ぶちぬきの部屋の敷居や桜鍋

                           綾部仁喜

語は「桜鍋(さくらなべ)」で冬。馬肉の鍋料理だ。大人数の宴会なので、部屋が「ぶちぬ」いてある。詰め合わせているうちに、運が悪いと「敷居(しきい)」の上の座布団に坐る破目になる。すぐ傍らに敷居があっても、あれはなんとなく気になるものだ。作者の位置は、そのあたりなのだろう。だが、会はお構いなしに進行していく。そのにぎやかな様子を、敷居から連想させたところが巧みだ。「ぶちぬき」という言葉も、威勢が良くてよろしい。東京の新宿御苑近くに、馬肉専門の店があって、ほぼ毎年そこで友人たちと忘年会を開く。もう三十年ほどは続いたたろうか。出版や映画の世界の男たちが主だけれど、なかにはどこでいつどうして知りあったのか、よくわからない友人もいる。本人に聞いてみても、「さあ……」と頼りなくも要領を得ない。それもまた愉し。小さな店だから、二階には八畳ほどの部屋が二間しかない。最初の頃には二十人以上はいたから、部屋はいつもぶちぬきだった。にぎやかを通りすぎて、うるさいくらいだった。それが歳月を経るうちに、亡くなる人もあったり病気がちの奴もでてきたりで、いつしかぶちぬかなくても間に合うようになってしまった。去年まではここに元気に坐ってたのになアと、誰言うとなくつぶやきが洩れてくる。近年は出かけて行くたびに、人生がそうであるように、会にもまた盛りがあることがしみじみと思われる。今年も年末に集まるのだが、何人くらい来られるだろうか。敷居の上の座布団の座り心地の悪さが、いまとなっては懐しいよ。「俳句」(2003年12月号)所載。(清水哲男)


November 23112003

 素人が吹雪の芯へ出てゆくと

                           櫂未知子

日本に大寒波襲来。お見舞い申し上げます。日本海側で暮らしていた私には多少の吹雪の体験はあるが、北国での本当の怖さは知らない。作者は北海道出身なので、そのあたりは骨身に沁みているのだろう。なによりも「吹雪の中」ではなくて「吹雪の芯」という表現が、そのことを裏付けている。実体験者ならではの措辞だと、しばし感じ入った。それこそ「素人」には及びもつかない言い方だ。そんな「芯」をめがけて、怖いもの知らずの奴が「出てゆく」と息巻いている。止めたほうがいいと言っても、聞く耳を持たない。根負けしたのか、じゃあ勝手になさい、どうせ泣きべそをかいて戻ってくるのがオチだからと、半ば呆れつつ相手を突き放している。しかも、突き放しながら心配もしている。「出てゆくと」と、あえて言葉を濁すように止めたのは、そんなちょっぴり矛盾した複雑な心情を表すためだと思う。実際、素人ほど無鉄砲であぶなっかしい存在はない。吹雪に限らず何が相手でも言えることだが、素人は木を見て森を見ず、と言うよりも全く森は見えていないのだから、何を仕出かすかわかったものじゃない。たまたま巧く行くこともあるけれど、それはあくまでも「たまたま」なのであって、そのことに他ならぬ当人が後でゾッとすることになったりする。そこへいくと「玄人」は、まことに用心深い。猜疑心の塊であり、臆病なことこの上ないのである。片桐ユズルに「専門家は保守的だ」という詩があるけれど、そう揶揄されても仕方がないほどに慎重には慎重を期してから、やっと行動に移る。面白いものだ。『蒙古斑』(2000)所収。(清水哲男)




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