November 272003
懐手かくて人の世に飛躍あり
軽部烏頭子
季語は「懐手(ふところで)」で冬。句の所載本に曰く。「和服の場合、袂の中や胸もとに両手を突つこむの言、手の冷えを防ぐ意味があるが、多くは無精者の所作として、あまりみてくれのよいものではないが、和服特有の季節感はある」。そうかなあ、文士などの写真によく懐手の姿があるが、子供のころから私は、いかにも大人(たいじん)風でカッコいいなと思ってきた。ズボンのポケットに手を入れているのとは大違いで、どこか思慮深さを感じさせるスタイルだなと。ま、しかし、それは人によるのであって、一般的にはこの解説のように見栄えがしなかったのだろう。ポケットに手をいれていても、たとえばジェームス・ディーンなどはよく似合ったように、である。懐手をして背を丸めて、作者はそこらへんを歩いている。すれ違う男たちもみな、いちように同じ恰好だ。なにか寒々しくもみじめな光景だが、このときにふと思ったことが句になった。そうか、みながこうして縮こまっているからこそ、「人の世」には次なる「飛躍」ということがあるのだ。いつも背筋をピンと這っていたのでは、ジャンプへの溜めがなくなるではないか。懐手こそ、飛ぶためのステップなのである。と、これは半分くらい自己弁護に通じる物言いだとけれど、そこがまた面白いと感じた。たしかに人の世には冬の時代もあり、その暗い時代が飛躍のバネになったこともある。こうした自己弁護は悪くない。さて、現代は春夏秋冬に例えれば、どんな季節なのだろうか。少なくとも、春や夏とは言えないだろう。やはり、懐手の季節に近いことは近いのだろうが……。『俳句歳時記・冬の部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)
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