すっかり寒くなりました。私のノートパソコンはかなり熱くなるので、手焙りに使用中。




2003ソスN11ソスソス29ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 29112003

 茶の花やインドは高く花咲くと

                           中西夕紀

語は「茶の花」で冬。作者はたぶん、垣根などに植えられた茶の木の花を見たのだろう。というのも、農家の茶畑では花を咲かせないからだ。花が咲けば実がつく。その分、木の栄養分は花や実に取られてしまう。昔から、農家では「花を咲かせたら恥」とまで言われてきた。私は二十歳のころに茶所宇治に暮らしたけれど、茶の花はついぞ見かけたことはなかった。また茶の木は、放っておくと七、八メートルの高さに生長する品種もあるそうで、茶畑にせよ垣根にせよ、刈り込んで低い木に育てるのが常だ。したがって、見かけるのはいつも低いところに咲く花であり、作者もまた低所で下俯いて咲いている白い花を見ている。そんな地味な花の姿から、「インドの花」に思いを馳せた飛躍のありようが揚句の魅力だ。句は花の咲く位置の高低を述べていて、それはおのずから寒い冬の日本から暑い夏のインドへの憧憬を含んでいる。実際のインドの酷暑たるや凄まじいと聞くが、作者は「花咲くと」と伝聞であることを明確にしており、ここでの憧憬の対象は現実のインドではなく、いわば物語的神秘的なインドであることを指しているのだ。そのロマンチシズムが、寒くて低いところに咲く地味な花を、逆に生き生きと印象づけてくれる。この句を読んだときに、私はリムスキー・コルサコフの「インドの歌」(歌劇「サドコ」より)を思い出した。歌詞には花こそ出てこないが、メロディも含めて、ここにあるロマンチシズムは作者のそれに共通するものがある。「俳句」(2003年2月号)所載。(清水哲男)


November 28112003

 炬燵せりこころ半分外に出し

                           中原道夫

かりますねえ、この気持ち。そろそろ「炬燵(こたつ)」を出そうかというとき、どこかに「いや、まだ早いかな」という気持ちが働く。ひとたび炬燵を出して入ってしまうと、つい離れるのが億劫になるので、それを警戒するからだ。外出はむろんのこと、隣の部屋に行くことすら面倒臭くなる。作者もそんな思いで我慢をしていたのだが、とうとう辛抱たまらずに、出すことにした。しかし、それでもなお「こころ半分」は炬燵の「外」に向けながらと言うのである。それほど炬燵は快適だし、かといって行動力が落ちるのも困るしと、逡巡しつつも「炬燵せり」の感じがよく伝わってくる。一瞬「炬燵せり」は「炬燵出す」でも面白いかなと思ったけれど、句のほうが既に炬燵に入りながらもまだ逡巡している可笑しさがあって、やはり「せり」で正解だろう。炬燵というと、いまはほとんどの家庭が赤外線コタツを使っている。戦後もだいぶ経ってからの発明だが、聞いた話では、発明者は小さな町工場の技術屋だったという。そのパテントを大手のメーカーが極安で手に入れ、盛大に宣伝しまくったことで、今日の隆盛をもたらした。でも、最初のうちはコタツの中が赤く見えなかったので、あまり売れなかったらしい。そこで一工夫して内部の電球を赤く塗ってみたところ見た目にも暖かそうになり、そこからブレークしたという話もある。機能や性能が優れていても、それだけでは売れないという商売の難しさ。パソコンではないけれど、インターフェイスのデザインはとても大事だ。我が家にも、この方式のコタツがある。出そうか出すまいか、まだぐずぐずと迷っている。『不覺』(2003)所収。(清水哲男)


November 27112003

 懐手かくて人の世に飛躍あり

                           軽部烏頭子

語は「懐手(ふところで)」で冬。句の所載本に曰く。「和服の場合、袂の中や胸もとに両手を突つこむの言、手の冷えを防ぐ意味があるが、多くは無精者の所作として、あまりみてくれのよいものではないが、和服特有の季節感はある」。そうかなあ、文士などの写真によく懐手の姿があるが、子供のころから私は、いかにも大人(たいじん)風でカッコいいなと思ってきた。ズボンのポケットに手を入れているのとは大違いで、どこか思慮深さを感じさせるスタイルだなと。ま、しかし、それは人によるのであって、一般的にはこの解説のように見栄えがしなかったのだろう。ポケットに手をいれていても、たとえばジェームス・ディーンなどはよく似合ったように、である。懐手をして背を丸めて、作者はそこらへんを歩いている。すれ違う男たちもみな、いちように同じ恰好だ。なにか寒々しくもみじめな光景だが、このときにふと思ったことが句になった。そうか、みながこうして縮こまっているからこそ、「人の世」には次なる「飛躍」ということがあるのだ。いつも背筋をピンと這っていたのでは、ジャンプへの溜めがなくなるではないか。懐手こそ、飛ぶためのステップなのである。と、これは半分くらい自己弁護に通じる物言いだとけれど、そこがまた面白いと感じた。たしかに人の世には冬の時代もあり、その暗い時代が飛躍のバネになったこともある。こうした自己弁護は悪くない。さて、現代は春夏秋冬に例えれば、どんな季節なのだろうか。少なくとも、春や夏とは言えないだろう。やはり、懐手の季節に近いことは近いのだろうが……。『俳句歳時記・冬の部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)




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