December 092003
遠ざかる人と思ひつ賀状書く
八牧美喜子
何度も書いているように、作句の要諦は読者に「なるほどね」と思い当たらせることだ。季語は、言ってみれば思い当たらせるための最も有効な補助線である。たとえば「雪」と書けば「冬ですよ」と季節を限定できることから、それだけ「なるほどね」と中身にうなずいてもらえる必要条件が整うわけだ。この条件を逆用して、あっと驚かせるドンデンガエシ句を作る場合もあるけれど、驚かすための布石としてはやはり当たり前の補助線を当たり前に引いているにすぎない。掲句はとても素直な補助線が引いてあるので、わからない人はいないだろう。なるほど、こういうことってあるよなあ。と、納得できる。ところが句を「暑中見舞書く」としたら、どうだろうか。大半の人は、共感しかねるに違いない。賀状だからこそ、納得がいくのだ。そして掲句には、その先もある。中身は一見平凡に写るが、読者を簡単に納得させたその先に、実は一つの疑問を提示していると読むべきだろう。すなわち、年賀状って、いったい何なのかという疑問だ。儀礼だとか虚礼だとかとは別な問題として、出す側をかくのごとくに拘束する力の不思議さ。「遠ざかる人」と思うなら、書かなければよいというわけにもいかない心理が、年賀状に限って働くのは何故なのだろうか。鋭く疑問を呈しているのではないけれど、読者が本当に思い当たっているのは、こうしたことが自分にも起きるという事実そのことではなくて、毎年のように自問しているこのような漠然たる疑問そのものであるはずだ。おそらくは出す相手の側も、作者と同じ心理を働かせながら、結局は書いている。そう思うと、なんだか滑稽でもあり、しかし笑い捨てることもできない変な気持ちにさせられた。2004年版『俳句年鑑』(角川書店)所載。(清水哲男)
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