December 202003
世直しの大門松を立てにけり
藤平伊知郎
季語は「門松立つ」。以前は今日あたりから立てはじめたものだが、最近ではクリスマス・ツリーに押しまくられた格好で、多くは二十五日以降に立てるようになった。作者は、暗い世相つづきの今年から脱皮して、来年こそは良き年にしたいという願いを込めて立てたというのである。「大門松」に、その意気込みのほどが感じられる。作者のことは何も知らないが、句の勢いからして、この門松は自分で立てたのだろう。山から伐ってきて二日ほど寝かせておいて、という古いしきたり通りに。そうではなくて職人頼みにしたのでは、せっかくの「世直し」への気合いが薄れてしまう。ほとんどの家が人頼みで立てるようになったのは、高度成長期以後のことだ。掲句の大門松をちりとでも贅沢に思った人は、何でも人頼みにする社会に毒されている。他人事ではなく、実は私も最初はそう思ってしまって反省した。ところで、我が集合住宅でも毎年人頼みで立ててもらっている。最初のうちは大人の背丈ほどの大門松だったものが、予算が一定だから、年ごとにだんだん小さくなってきた。止むを得ないことである。が、二年か三年前に、急に大門松が復活した。そこで一悶着が起きた。大きなのが立つやいなや、マンションの理事会に住民からの苦情が殺到したからだ。この不況下で門松の費用を増やすとは何事であるか、理事会の独断専行も甚だしいというわけだ。しかし増やした覚えはないから、理事連中も驚いた。さっそく依頼先に電話をしたのだが、先方は繁忙期とあって要領を得ない。結局は住民の苦情をよそに大門松は涼しい顔で立ちつづけ、取り払われてからやっと事の次第が判明したのであった。何のことはない、先方の単純ミス。むろん、例年通りの支払いで結構ということだった。以来、住民の間にはなんとなく単純ミスを期待する雰囲気があるようである。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)
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