December 252003
賀状書く痴呆かなしき友ひとり
細見しゆこう
賀状を書いているうちに、風の便りに痴呆が進んでいる友人宛のところで手が止まった。彼に、この年賀状が読めるのだろうか。読めたとはしても、差出人が誰かを理解できるのか。あんなに元気だった奴が何故……と、信じられない思いで暗く悲しい気持ちに沈みこむ。だが、やはり作者は例年のように彼に元気よく書いただろう。そう思いたい。たとえわからなくたって、それでよい。それが友情というものではないか。幸い、私には痴呆の友はいない(はずだ)。ただ、毎年のようにポツリポツリと亡くなる友人がいる。今年も、同級生ひとりと若い友人ひとりを失った。パソコンに入れた名簿を見ながら順番に書いてきて、亡くなった人の名前のところで筆が止まる。出そうか出すまいかの話ではなく、もう出してはいけないのだから、暗澹とする。そして元気だったころの姿を思い出すのだが、妙なもので、こういうときに浮かんでくるのは何故か些細なイメージばかりだ。よく赤いセーターを着ていたなとか、そういうことである。もう一つ、焦点が結ばない。そして最も辛いのは、もはや不要となった彼のアドレスを名簿から消去するときだ。パソコンでの操作だから、一瞬で消えてしまう。が、その操作には逡巡が伴ってなかなか踏ん切れない。あらためて電話番号などまで読み直して、それから思い切って消去ボタンを押す。そうすれば、見事に消えてなくなる。しかし、なんだかそのまま通りすぎるのも忍びなくて、また消去作業の取り消しボタンを押してみたりする。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)
July 162004
妻に供華ぽとんと咲かす水中花
細見しゆこう
季語は「水中花」で夏。コップや瓶などに水を入れ、その中に圧縮した造花を入れて花を咲かせる。昔はよく玩具屋や夜店などでも売られていたが、最近では手に入れるのがなかなかに難しくなってきた。私は刮目すべき発明品だと思ってきたけれど、もはや時代が受け付けなくなったということか。句の「供華(くげ)」は仏前に花を供えること、あるいはその花を言う。べつに作者は、生花の代わりに水中花を供えたのではあるまい。おそらくは、亡くなった奥さんが、この季節になると好んで咲かせていたのだろう。当時の作者は「またか」と一瞥をくれた程度だったかもしれないが、亡くなられてみると、妙に水中花が懐しくいとおしい。たまたま売っているのを見かけて買い求め、仏前にいま供えている。開く様子を眺めているうちに、うっすらと涙を浮かべている様子は、「ぽとんと咲かす」の表現から容易に想像がつく。と同時に、作者の孤独な暮しようが目に浮かんでくるようだ。そういえば、東京あたりでは今日は早くもお盆(新暦)の送り火である。日本の夏は盂蘭盆会もあるし、原爆忌や敗戦日も重なっているので、どうしても死者のことをいろいろと追想する季節となる。そんな日本の夏に「ぽとんと咲かす水中花」は、その意味からも哀切きわまりない心の響きを増幅して読者の胸に迫ってくる。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)
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