January 082004
冬草もそよぐ時ありおもひでも
橋本 薫
季語は「冬草(ふゆくさ)」。枯れているのもあれば、枯れかかっているのもある。むろん、なかには枯れずに青いままの草もある。言われてみれば、なるほどそれらは「おもひで」に似ている。見捨てられ忘れられたような冬の草も、ときには優しく風にそよぐ。それに気がつくとき、人は立ち止まり優しい気持ちになる。春風にそよぐ草々とは違い、冬草のそよぎには明るい兆しが見えるわけではない。「おもひで」も同様で、もはや過去の現実は動かない。動かせない。が、それでもたまさか何かのはずみで、ほのぼのとした動きを見せることがある。楽しかったことだけではなく、苦しかったことですら同じように心の風に優しくそよぐのである。これはおそらく、いまの自分の境遇や気持ちのありようと密接に関係しているのだろう。自分の今が、心のなかにいろいろな風を吹かせるからだろう。そして、もう一つ。心に吹く風は、加齢とともにだんだん穏やかになってくるようだ。微風が多くなるらしい。私はこのことを、詩人・永瀬清子の『すぎ去ればすべてなつかしい日々』という随想集に感じた。「自我が強くなければ物は書けない」と言った詩人の晩年は、自我が「おもひで」のなかに溶け込んでゆく過程なのであった。すぎ去ればすべてなつかしい日々……。自然にこう思える日が、誰にでも訪れるてくれればと願う。しかし、まだまだ私は生臭い草のままのようである。『夏の庭』(1999)所収。(清水哲男)
January 212004
冬草にふかくも入るる腕かな
きちせあや
季語は「冬草」。こういうことを詠めるのが、俳句という文芸ジャンルに許された特権だろう。あやまって何か落したのだろうか。枯れてはいるが丈の高い冬草のなかを、作者は手探りで探している。なかなか見つからないので、もっと奥の方かなと「腕(かいな)」をなお「ふかく」伸ばしてゆく。手を動かすたびに、脆そうに見えていた枯草が、しぶとく腕にからみついてくる。このときに作者が感じたのは、草の意外な強さに反発している自身の「腕」の存在だった。ああ、私には腕があるのだ……、と。日常生活では、怪我をするとか余程のことでもないかぎり、私たちは腕の存在など忘れて暮らしている。腕に限らず、五体の全てをとくに意識することはない。その必要もない。けれども、何かの拍子にこのように、ふっとその存在を知らされることはある。たいていの人はすぐに忘れてしまうが、作者はそのことをきちんと書き留めた。特別な感動を受けたり感興を催したというわけでもないのに、しかし、このことに気づいたのは確かだし、その様子を含めて書いておくことにしたのだった。普通にはまず書き留めようという気にもらない些事を、作者には慣れ親しんだ俳句という表現様式があったがゆえに、このように定着できたのだ。このことに、私は静かな興奮を覚える。俳句があって良かったと思うのである。『消息』(2003)所収。(清水哲男)
May 062016
昼を打つぼんぼん時計鴉の巣
近本セツ子
鴉は春先から繁殖期に入り、大木の高い所に小枝を椀状に編み上げて五十センチ程の大きな巣をつくる。前年の巣を利用してより大きくなった巣もある。そんな鴉の巣が見える人家がある。忙しなくデジタルに展開する世間を他所に、そこには取り残された様なゆっくりとした時間が流れる。壁の柱のぼんぼん時計もその象徴の一つだろう。広い家の庭からは梢に出来た鴉の巣が見える。戸主が居て長男が後を継ぐ世界を経て来た。恐らくは大家族の時代があったろう。それも今は昔、若い者が次々と都会へ出て、この家の家族構成も移り変わった。少人数世帯、老人だけが居残っただろうか。相変わらずのアナロク時計がボンとなり昼を告げた。<冬草や時計回りの散歩道><木の国の春の音かも時計鳴る><壊れたる銀の時計に春遅々と>。俳誌「ににん」(2015年春号)所載。(藤嶋 務)
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