会議のために出かける。今日が実質的な仕事始めだ。と思ったら、明日から三連休とは。




2004ソスN1ソスソス9ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 0912004

 空青しフレームの玻璃したたりて

                           金子麒麟草

語は「フレーム」で冬。といっても、すぐにイメージのわく読者がどれくらいおられるだろうか。外来語(英語の"frame")ではあるが、季語にまでなっているほどだから、一時は一般用語としても普通に通用していたのだろう。しかし、私は知らなかった。この句をみつけた歳時記に曰く。「寒さから植物を保護し、また蔬菜や花卉を促成栽培するための保温装置あるひは人工を以て温熱を補給する設備のこと。藁・蓆などで覆つた簡単なものなどいろいろある」。要するに温室のことで、英語の辞書で"frame"を引くと、何番目かの意味にちゃんと「温室」と出てきた。一般住宅とは違い、枠(フレーム)組みが露わであることからの命名だろうか。句のそれはガラス張りだ。昔の農家の設備としては高価すぎる感じがするので、農事試験場や植物園の温室だろうと思う。何日かつづいた雪空が一転して晴れわたり、抜けるような青空の下で、温室の大きな「玻璃(はり)」が溶ける雪のしずくを滴らせている。まことに清々しい情景で、仕事始めの句だとすれば、なおさらに気持ちがよい。この「フレーム」が使われなくなったのは、おそらくビニール・ハウスの圧倒的な普及に原因していると思われる。昨秋訪れた故郷の村も、「ハウス」だらけであった。米作だけでは生活が成り立たなくなり、どこの家でもハウスでトマトやキュウリを栽培していると聞いた。本来は夏の野菜が、一年中出回っているわけである。そのことに私などはよく季節感の喪失を嘆くのだが、農家は生きるために、そんな悠長なことを言ってはいられないのだ。そのことが、よくわかった旅でもあった。『俳句歳時記・冬之部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)


January 0812004

 冬草もそよぐ時ありおもひでも

                           橋本 薫

語は「冬草(ふゆくさ)」。枯れているのもあれば、枯れかかっているのもある。むろん、なかには枯れずに青いままの草もある。言われてみれば、なるほどそれらは「おもひで」に似ている。見捨てられ忘れられたような冬の草も、ときには優しく風にそよぐ。それに気がつくとき、人は立ち止まり優しい気持ちになる。春風にそよぐ草々とは違い、冬草のそよぎには明るい兆しが見えるわけではない。「おもひで」も同様で、もはや過去の現実は動かない。動かせない。が、それでもたまさか何かのはずみで、ほのぼのとした動きを見せることがある。楽しかったことだけではなく、苦しかったことですら同じように心の風に優しくそよぐのである。これはおそらく、いまの自分の境遇や気持ちのありようと密接に関係しているのだろう。自分の今が、心のなかにいろいろな風を吹かせるからだろう。そして、もう一つ。心に吹く風は、加齢とともにだんだん穏やかになってくるようだ。微風が多くなるらしい。私はこのことを、詩人・永瀬清子の『すぎ去ればすべてなつかしい日々』という随想集に感じた。「自我が強くなければ物は書けない」と言った詩人の晩年は、自我が「おもひで」のなかに溶け込んでゆく過程なのであった。すぎ去ればすべてなつかしい日々……。自然にこう思える日が、誰にでも訪れるてくれればと願う。しかし、まだまだ私は生臭い草のままのようである。『夏の庭』(1999)所収。(清水哲男)


January 0712004

 前髪の額に影さす手毬唄

                           角谷昌子

語は「手毬(唄)」で新年。♪あんたがたどこさ、肥後さ、肥後どこさ、……。ついぞ手毬唄を聞くこともなくなった。手毬をつく女の子たちも見かけない。だから、この句も実景かどうかはわからないのだが、べつに実景でなくてもよいと思う。まだあどけない女の子が、日溜まりで無心に毬をついている。歌っているのは、どんな唄なのか。手毬唄にはわりに残酷な内容のものが多いけれど、むろん女の子は意味もわからずに歌っているのだ。このとき少女の「額(ぬか)」にさしている「影」は単なる物理的なものでしかないが、作者にはそうは見えない。既にしてさし初めている「人生のかげり」のように思えているのである。この影はかつての幼かった自分にさしていた影なのであり、それはいつまでも無心に生きることを許さない影なのだった。この思いに手毬唄の明るいメロディが重なり、それがかえって哀感を呼ぶ。からっとした光景に湿度の高さを見たところに、作者の発見がある。ところで、この正月に新年の句をたくさん読んでみて感じたのは、手毬もそうだが、いかに新年の遊びや行事が遠くなってしまったかということだった。それでも私などはまだ過去の記憶にあるからわかるのだが、あと半世紀もしないうちに、手毬の何たるかすら忘れ去られてしまうのだろう。そう思うと、どんなに明るく詠まれていても、正月の句はなべて哀しく写ってしまう。『源流』(2003)所収。(清水哲男)




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