けっきょく東京に積雪は見られませんでした。朝から日が射しています。8時現在0.8度。




2004ソスN1ソスソス18ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 1812004

 女客帰りしあとの冬座敷

                           志摩芳次郎

語は「冬座敷」。明るい夏座敷とは対照的で、障子や襖を閉めきってある。句の場合は家族が起居する部屋ではなく、いわゆる客間だ。昔であれば火鉢に鉄瓶の湯をたぎらせたりして、冬の座敷ならではの風情を演出した。我が家にはそんな余裕はないけれど、少年時代に一時厄介になった祖父の家には、ちゃんと来客用の座敷があった。客のいないとき、気まぐれに入り込んだこともあるけれど、子供には純日本間の良さなどはわかりようもなく、ただガランとしていてつまらない空間としか思えなかった。部屋はやはり、いつも誰かがいたり、いた気配があってこそ親しめる空間なのだろう。さて、掲句。「女客」は自分の客ではなく、母親か妻を訪れた女性だと思う。自分の客であれば、女客などと他人行儀な言い方はしないはずだ。だから作者は、その客がどこの誰と聞かされてはいても、挨拶もしていないのだから、よくは知らないのである。で、「帰りしあと」に何か必要があって、座敷に入った。男の客が帰ったあととは、部屋の雰囲気がずいぶんと違う。煙草の煙もなく、もてなしの茶菓にもほとんど手がつけられていなかったりする。唯一そこに家族とは違う人がいたのだという痕跡は、香水の残り香であって、それがつい最前までの座敷の華やぎを思わせる。べつに淋しいということでもないけれど、華やぎを喪失した部屋のたたずまいに、作者は軽い失望感のようなものを覚えているのである。しばらく、意味もなく部屋を眺め回したりする。「それがどうしたんだ」と言われても答えにくいけれど、冬座敷はこのように、漠然たる人恋しさを感じさせる空間でもあるようだ。『俳句歳時記・冬之部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)


January 1712004

 雪をんな紐一本を握りたる

                           鳥居真里子

語は「雪をんな(雪女)」、雪女郎とも。たいがいの歳時記は春夏秋冬・新年と言葉を季節ごとに分類し、さらに「天文」「地理」「生活」「行事」などと項目を細分化して収録している。さて、それでは「雪女」はどの小項目に分類されているのか。「生活」とか「人事」だろうか、待てよ「動物」かしらんと、案外に即答できる人は少ない。正解は「天文」で、「雪晴」や「風花」と同列である。つまり「雪女」は、昔から明確に自然現象と位置づけられてきたわけだ。もう少し細かく分けるとすれば、豪雪が人にもたらす幻想幻覚だから、「狐火」などとともに「天文>幻想」の部に入れることになるだろう。「みちのくの雪深ければ雪女郎」(山口青邨)。ところが昨日あたりまでの北日本の大雪は例外として、地球温暖化が進むに連れ、雪があまり降らなくなってきた。正月には雪が当たり前だった地方でも、むしろ雪のない新年を迎えることはしばしばだ。したがって、当然のことながら、雪女の出番も少なくなってきた。にもかかわらず、俳句の世界では人気が高く、よく詠まれているようだ。が、昔の人はこの幻想に実感が伴っていた。深い雪に閉ざされた暮しのなかでは、その存在を信じないにせよ、自然に対する怖れの心があったからだ。いまは、それがない。だから、現代の多くの雪女句は、自然への怖れを欠いているがゆえに、本意を遠く離れて軽いものが多い。無理もないけれど、もはや多くの俳人にとっての雪女は天文現象とは切れていて、なにやらアイドル扱いしている様子さえうかがえる。掲句の作者はおそらくそのことに気がついていて、雪女にもう一度リアリティを持たせたかったのだと思う。そのためには、どうするか。思いを巡らせ、小道具に「紐一本」を握らせることで、何をしでかすかわからぬ不気味さを演出してみせたのである。現代版雪女には違いないけれど、少しでも本意に近づこうとしている作者に好感を持つ。『鼬の姉妹』(2002)所収。(清水哲男)


January 1612004

 夜目に追ふ雪山は我が帰る方

                           深谷雄大

日本の猛吹雪はおさまっただろうか。テレビで見ていても足がすくむ思いだから、いくら雪に慣れているとはいえ、あの猛烈な雪嵐には現地の人もたじたじだったにちがいない。お見舞い申し上げます。ところで当たり前のことを言うのだが、雪国に暮らしているからといって、きちんと雪を詠めるとは限らない。その土地ならではの雪の様子を読者に伝えることは、雪が目の前にあるだけに、かえって難しいのだと思う。作者は旭川在住で、「雪の雄大」と異名をとるほどに雪の句の多い人だ。むろん佳句もたくさんあるが、初期の句を読んでみると、雪に観念の負荷をかけすぎていると言おうか、若さゆえの気負いが勝っていて、意外に雪そのものは伝わってこない気がする。たとえば「雪深く拒絶の闇に立てる樹樹」と、青春の抒情はわかるし悪くないのだが、雪の深さはあまり迫ってこない。そこへいくと同じ句集にある掲句は、過剰な観念性を廃しているがゆえに、逆に詠まれている雪(山)が身に沁みる。雪国の人にとっては、ごく日常的で、なんでもない情景だろう。雪の少ない街場の喫茶店あたりで、友人と談笑している。あるいは、仕事が長引いているのかもしれない。家路を急ぎながらの解釈もできるが、むしろ作者は止まっているほうが効果的だ。そんな間にも、ときおり気になって「我が帰る方(かた)」を「夜目に」追っている。何度も、そうしてしまう。夜だから、追っても何かが見えるわけではない。つまりこの言い方は、作者がそうせざるを得ない行為の無意識性を表現している。すなわち、旭川の雪と人との日常的なありようが鮮やかに捉えられている。地味な句だけれど、心に残った。『定本裸天』(1998・邑書林)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます